- Self Standing Sentences - @
FFS Loung Gallery / Nagano City
2016年1月23日・2月6日・ 2月20日/ 13:00~16:00(三日のみ一般公開)
セルフスタンディングセンテンス
おそらく創作手法は切り詰めた立ち位置から発生する。だがこの時の位置は没頭と反射を閉塞的な反復に閉じ込めるから(没頭と反復が保証されていないアイディアルな手法は浅薄であるという事後的なパラドクスがある)、手法に囚われた「自由」の扱いをいかに「外部」に変換できるかがその位置に立つ者の弁えとならざるを得ない。反復の至福という時間は巧妙と装飾的な愛着を簡単に齎すので、その溜まりは徐々に硬化を与え自在な身動きが困難になる。明日わたしたちが夥しい差異に充ちた物語や出来事を待つのは、思いがけない瞬間的な判断の反射の煌めきに自らが出会いそれを行う者でいたいからであるのと同じように、没頭と反復で研磨された手法が、自立的に差異と硬化破綻を回収し表出(物語)を生成する外部への開拓の仕組みを手法自体に備える必要がある。
世界へのアプローチとして目前の交じりとして扱う創作が例えば、一筋の白線の生成に数万本の黒線が必要となる時、陰影と光(ライトインフォメーション)を間近に抱き置き、艶やかな肌合いの材を知るには泥の闇にそれを放り投げる危うい同時性を、出来事を表出する立ち位置に「勇気」に似た状態で踏まえなければならない。この困難はけれども、手法が導くよりも先に、唐突に新しい地平を示すという可能性に支えられる方向を定めている。
「主義」的な判断から離脱し、顕われの認識枠の隙間に浮遊偏在する景色が、わたしにとってあの時から今になっても、必要と思われた。
空間を形成するオブジェクトによるインスタレーションは、圧縮置換される平面構想に併置されているので、材質によるその空間の変位を求めない。併しやがて生まれる圧縮平面の為の事前の構想展開というわけではない。この場合の平面構想とは、視覚表出の受け取りに於ける「予感」として作用するだけでよいのは、空間も平面計画も約束された到達ではないからであり、つまりこの不完全な「ブレ」そのものが、私ということになる。
↑
page up↑