The 1st NAGANO International Performance Art Festival
NIPAF'93 Supporting Arttist Exhibition, 24-27 February 1993

Maruta Kyoko
Untitled/1992. acrylic,enameru on canvas 1450x4540mm

Takahashi Ryo
Cubic Concrete 1993.2000x4000mm

Shimizu Hiroyuki
Time Flies 1993. photo,luminouspaint,luminous powder,lumber,photo-place/akashia-so (1000x1500mm)x4

Ogawa Takashi
Does fragrance of the lavender induce me to sleep?2. mixed-media

Koyama Rieko
Flower.1992 . acrylic on canvas 1939x4500mm

Kitajima Bonji
Equioment for Unbinding Drawing (scale models)

Kurosawa Akira
fragmental scenes 1992-1993. MBM-charcoal paper,charcoal

Momose Noboru
CD4/1993.plaster,plastic-board,CD

Dui Seid
AIDS. mixed media

Machida Tetsuya
beyond 1992 f15 x 21, silicon carbide, 1956mm(high)x3710mm(wide)

iron,canvas,human 1993 f120 x 3, silicon carbide, iron box x 4, 2650mm(high)x4000mm(wide)x200mm(depth)

NIPAF'93 SUPPORTING ARTISTS EXHIBITION
1993,24.February-27.February 9:00-18:00
Nagano Prefectural Culture Center Exhibit Hall


Discription on Pamphlet

眺めるということ An Act of looking out / NIPAF 93

 パフォーマンス・アートを真摯に受けとめるということは、正面からそれを疑うことにある。アーティストが、表現の仕組みとして選択した、時代の流れに従った、ごく当たり前の形式であるにもかかわらず、活性化しているとはいえないのは、パフォーマンス自体が時間軸を基調とした多様な形態をとるイヴェント的な性格もあって、トータルに語ることがむつかしいからでもあり、また美術系大学などでも、パフォーマンス・アート専攻過程など設けていないし、社会的許容の表現として定着していないのが現実だ。いわゆるアートの創作教育の現場は、狭く境界づけられた少ないカテゴリーでくくられ、自在な素材やアイディアを展開するような演習がカリキュラムに含まれていることが少ない上、日々現れる新しい表現を検証する理論的な追求もできないに等しい。いつの時代であれ、アートがどのような自由と不自由を抱えているのかを、誰も明らかにしようとしないのは、結局アートがこの国において、いまだ非現実的な営みと受けとめられている傾向に理由があるのだろう。パフォーマンス学科を大学等に設置せよという短絡ではなくて(そういった短絡もあったほうがいいけれども)、表現のその多様性に、健全な探究の眼差しを与えることが、何故できないのかをまず考えるべきだ。  パフォーマンス・アートが我々に提起するのは、人間の関係の再構築であり、あるいはまた現実の刷新という促しであり、素直な驚きでもある。緊張感のある関係の場がいよいよなくなって、独我的な個と空虚な群れ(村)が乱暴に勝手に転がる様相を呈する社会で、「出会い」という場が語られ、眺める態度が問われはいじめたのは、ここ数十年のことにすぎない。生理的な判断が横行して全体という妄想が然し、そういった突出をなぜか無視するように動くのだ。  作品を眺めるということは、必ずしもつくるということと同じレヴェルで成立すると考えられていない。むしろ作品は、様々にその可能性や意味を、時間や空間の状態に応じて捉え直すことができるものでないとつまらない。ところが、作品の機能は紆余曲折を免れない。おそろしいのは、そういった誤解されることを前提にエゴを曝け出し、犯罪に近い形を表現と混同する未熟な作り手であり、また、それを嫌悪する群れ(村)といった。主体のない無知という生理である。作品の社会性と、作歌のオリジナルティー、態度などを、表現から受けとめるには、そういった表現を望んでいる社会の気分も必要であろう。  群れ(村)が、外から犯されることが顕著になる現在、アートの持つその他者性を注視しないと面白くない。我々は理解しあっているという幻想が、いまだあって、疑うことを忘れている。アートによって引き裂かれ、裏切られることを、実は我々が望まなければつまらない。  現代のアートはよくわからないと言われる。これは、新しい道具を使う時にマニュアルが必要とされるのと同じであって、複雑怪奇な道具にはそれなりの理解を寄せなければならないということになる。ただ漠然と眺める景色に何の意味や感動もないのと同じというわけだ。だが、おかしなことに、アートは時々前触れなく、予備知識等を無視するような勢いで、唐突に我々に迫ってくることがある。突き放すことも出来ずに、暫くは頭を抱えるのだ。アートが意味でなく、人間の生である以上、覚悟してその生を眺めたいと思う。作り手もそういった意味で、共同体に甘えるような独我論をやめて、何処か遠くへ響いていくものを構想すべきだ。  情報の選択や取得が簡単になり、差異が弱まり、均質化するような世界をシニックに眺めるムードに甘んじると、新鮮な驚きや豊かさというものを失う。わけのわからないコトに出会う欲望を抱き続ければ、人間の未知なる現れには、勇気と可能性がある。
1999 加筆
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