路眼 -当惑-


らがん(裸眼)ーりがん(離眼)ーるがん(流眼)ーれがん(列眼)ーろがん(路眼)、ラ行が転がし、18年前に長女の名前を考えた時を憶い出した。
眺める側の機能である「眼」をまず与えたのは、態度を明快にしたいという意味と、命名の責任を主体側に置いて始めたいという気持ちがあった。
次女のハ行を、はがん(破眼)ーひがん(彼眼)ーふがん(俯眼)ーへがん(経眼)ーほがん(補眼)と続けてみた。
構築観念の「当惑」に結ばれたのは路眼だった。この「当惑」は普遍化に向かう性質のものであるため下位に位置づけた言葉だが、いずれ、「路眼」と「当惑」は、その位置関係が逆転する。なぜなら、前者は姿勢であり、後者は動機であるからだ。

「路眼」とは勝手な造語であり、「当惑」は、無論以下のような説明以下でも以上でもない。この「当惑」は、「驚き」、「感動」などのエモーショナルな印象とは無関係で、目の前に「途方に暮れる」ということを示している。
撮影は勿論、途方に暮れる光景を探すわけではなく、撮影後光景を検証し(恣意的・美的なものの排除など)残ったものが逆説的に、「当惑」を露呈した(「当惑」でしかなかった)という性格を負う。このメソドの効果として、撮影を補助し、あるいは助長し、所謂「好奇な浅ましい眼」を抑制し、日常の眼に平明な活性を与える目的にも転化する場合がある。「当惑」の光景が恣意と世界の間に存在を許すことのできる表象化への固有な系譜(私)を正当化するプレテクスト(口実)とも云える。「恣意と世界の間」には「倫理」の河が流れている。
個別の光景に「光景の為の当惑の断片」というテキストを与えるのは、蛇足だが、「当惑」を併置する態度自体が言説的である為と、この時代の「当惑」を、光景の果てに並べ置きたいという想いがある。

当惑ー

(名)スル
事の解決に困り途方に暮れること。どうしてよいか分からなくて、戸惑うこと。
「突然の質問に—する」
[派生] ——げ(形動) / goo事典

途方に暮れるー

――に暮・れる
方法がなくてどうしようもない。どうしたらよいか手段が思いつかずまよう。途方を失う。 / 大辞林 第二版(三省堂)

>>路眼 (テストバージョン)

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The latest update : 06,August.2008
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