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<copyright>Copyright (c) 2010, machidatetsuya</copyright>
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<title>夢の発酵、あるいは記憶の成就</title>
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<summary type="text/plain">　移りゆく時間と喪失の中に横たわる「見えつづけるもの」は、共有される記憶の成就で...</summary>
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<![CDATA[<p>　移りゆく時間と喪失の中に横たわる「見えつづけるもの」は、共有される記憶の成就でもあり、それは夢を発酵させて海馬を巡り、新たな「残るイコン」となるエポックへ結ばれる。</p>

<p>　事象に引き寄せられる「性」を思いながら列車の中から、移動の横でも、そこに残りつづける特異な現れの意味に頷くような時が繰り返されていた。</p>

<p>　特異で固有な知覚経験はブラックボックスに封じられたままだが、そのレセプターを突き抜けた形骸として残ったオブジェは、どのような経緯の性格のものであっても、荒野に曝されつづけるという共有のイコンとなる。テクノロジーの果てで排出された他人の夢の残滓であっても、再び、更にまたと、目の前に見えつづけることで、都度新しく暗い箱を通り抜ける。</p>

<p>　語りつづける人の表情の記録を継続して、まるで何度も、その魂の幾層にも重なったオブラートのようなものが、はげ落ちるような表情の変化が、言葉の吐き出される吐述のような、彼の過去への辿りの探索の探りの巡りに反応するように変化し、とうとう魂が表出する時があり、なるほどとそれを見ていた。</p>

<p>　故に何を目の前に並べて見つづけるのかということになる。行動はその併置に従うというわけだ。<br />
　</p>]]>

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<title>意識のパラドクス</title>
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<modified>2010-07-16T17:36:43Z</modified>
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<summary type="text/plain">　「こうであった」と意識化する、所謂言語は、過去に属しながら、その言語は時を超え...</summary>
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<![CDATA[<p>　「こうであった」と意識化する、所謂言語は、過去に属しながら、その言語は時を超え記述として遺るという意味で、現在進行しつつある意識は、過去に属するというパラドクスに犯されている。表象も然り。見えることは体感として時を刻む毎に受容享受され感覚されるけれども、その感覚自体は本来的に残らないから、フィジカルな享受（快楽）は、時間と無縁であり、常に消耗喪失し、個的な感覚以外ではあり得ない。もしかすると意識は、フィジカルとは全く別の快楽システムとして、形の違ったドーパミンを生成し、知覚できない海馬の海の中、多様な弱肉強食の摂理に従っているだけかもしれない。</p>

<p>　見えることが見えたことになる、「言語」という道具の使い方が、未だ未熟だとも考えられる。発音と表音の知覚差異すら明快に判別できない文化文脈下において、見えていることと発声することの混同のジュラ紀のような発酵の時代に生きているとすれば、スピーチと表意言語との徹底的な差別化が行われる時代が、テクノロジーによってもたらされることがあるかもしれない。</p>

<p>　ただし、海馬の海の中、差異の個別は、互いに、遺伝子やウイルスのように変異しつつ、頰を擦り寄せるように近づき、あるいは排他し、あるいは騙し、また殺戮の衝動に従って、作用し合い、求めるような素振りの斥力、嫌悪の愛に頓着する。これは近接の距離、存在の隙間のボリュームに依る。</p>

<p>　人間の意味というのは、この海が構想の地平となることだから、豚肉をつり下げる鋼鉄の楔のような無関係さの時間に対しても、数万年以上、意識の横に流すしかなかった。</p>

<p>　現在の成立をまず過去であるとする検証のイコンが、明晰でありながらも難解な時空、あるいは「彼方」を示唆する時、成立する現在自体が、難渋で途轍も無い未知に支配されて顕われるとすれば、そうした伽藍蓄積で構造される未来は、やはり人間的なプレコグニションとして顕われ、各存在の隙間には性質の異なった時間が流れる。それは、意識錯乱が、システム機能の基本的な機能を充分に果たすような形となる場合もある。それにしても、動的であることと静的であることの位置と距離が、差異の典型的倒錯のひとつであることは、時間と意識、あるいは現在と意識と同様な無関係を孕んでいて、実に興味深い。表象（過去）の輪郭をオブラートしている時間は、空白状況によっていかようにも変容を受け止めて、その位置をスライドさせ、あるいは複製する。繋がっているように捉えがちの「意識」も、点在の証として、空白を時にデタラメに流れる。だから観念は、表象のオブラートに付着しているような性格となる。</p>

<p>　</p>]]>

</content>
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<title>書き言葉という出力</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://machidatetsuya.com/blog/archives/2010/07/post_82.html" />
<modified>2010-07-01T04:37:43Z</modified>
<issued>2010-07-01T03:55:47Z</issued>
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<summary type="text/plain">　選別に苦慮し調整に苦慮し出力した一枚の印刷物としての写真は、日本語の書き言葉と...</summary>
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<![CDATA[<p>　選別に苦慮し調整に苦慮し出力した一枚の印刷物としての写真は、日本語の書き言葉と似ている。</p>

<p>　iPadやらiPhoneやらの小さな高解像度モニターから液晶TVモニターなどに映し出されるイメージ・情報が、話し言葉と似ていると同じ意味で、オブジェクティブな一枚の写真や、製本された写真集は、そこに唯物的に在り続けるという意味で構築（編集）された書き言葉のような繊細を併せ持ち、その存在は、書き言葉の佇まいと近親関係にあるようだ。</p>

<p>　デジタルデータのモニター出力が、話し言葉という流通性と似ているのは、即効性と消滅の速度に関係しており、例えば、昨今気が振れたような騒ぎで大人が熱中している3Dプロダクトも、145文字のアンチコンテクストトリックのツィッターと似ている。水槽の中に泳ぐ一匹の魚を特化して日の丸構図で凝視することを強要される3D眼鏡を鼻に乗せ、弁当の真ん中の梅干しだけを喰うような3Dというアイディアが、日常に浸透し命を全うするとは思えないが、その滑稽でもある異様な差異感は、しばしバンジージャンプのようでもあり、短い牽引された熱狂が退くまで先端の技術という錯覚を伴ってマーケットを活性させる。省略言語や絵文字の従兄弟であるツィッターも、フォローという幻想幻滅が、SNSの対峙未確認想定コミュニケーションで固有な相手を喪失している話し言葉という書き言葉のパラドクスの滑稽と同様、発作的な身体性という否文脈的な熱中は、アンチグローバルでコアなオタクを生成するけれども、寄付やボランティアなどの社会活動（書き言葉）へ変異しないかぎり、セカンドライフのようなゴーストタウンとなる。</p>

<p>　複雑な書き言葉の意味は、即効性ではなく豊穣な機能性にあり、誤読が含まれても、時空を超えて別なものを蓄えて反射するその本来的な性質の、いわば距離にある。書き言葉を消化するには、書き言葉という文脈を抱え込まねば（学習）、血肉とならない。このハードルの高さが、問題とされる社会構造（安易で分かりやすくなければいけない）は、どこか壊れているともいえる。</p>]]>

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<title>不感症の合意</title>
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<modified>2010-06-05T04:07:12Z</modified>
<issued>2010-05-31T02:04:03Z</issued>
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<summary type="text/plain">　感受の能力が研ぎすまされて、対処の術を知らぬそのほとんどの受け止めを両手を広げ...</summary>
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<![CDATA[<p>　感受の能力が研ぎすまされて、対処の術を知らぬそのほとんどの受け止めを両手を広げて率直真摯に行えば狂うだろう。感じない平常心というものを了解する鈍感な素振りの服を纏う狂わない心、つまり生存の作法を、然し親から子さえへも教えない。稚拙が小さなユニットの反射観察から個的に学ぶしかないわけだ。</p>

<p>　社会合意の鈍感さ、そのあまりに不感症的な有様には、こうした理由がある。</p>

<p>　他人には見えない色が見える。聴こえない音が響く。などという戯言は、鈍感な不感症の淵の中のみに響く鈍い背伸びに過ぎないけれども、その淵の中では可愛いように機能させるしかない。</p>

<p>　本来的な感受の海の中に産み落とされた繊細の数々は、この淵が生存域ではないと知らぬまま狂い、間違った処方箋で、触手が赤く爛れている。</p>

<p>　不感症の合意の中にある「笑い」に、繊細に対する差別的、抑圧的なものが必ず潜むのは、その合意自体に対しての後ろめたさが裏返った、鈍感を正当化する逃避の仕草ともいえる。</p>

<p>　だから、見栄、虚飾といったことも、この合意形成では大いに機能するけれども、恥にまみれていることを知りつつ、繊細発狂を閉ざした退化の宣言のようなものだ。</p>

<p>　しかし、淵の外の荒野で、感受の繊細の小動物以下の生存力で、陽炎のように立ち尽くす当人たちにとっては、なにか最早喪失している内外からの思念の束縛が、懐かしい甘さとなって、淵への回帰願望が頭を擡げるものだ。この回帰にむしろ実質的に手に負えない罪と悪が生まれるのかもしれない。</p>

<p>　だからこの回帰の眺めにこそ倫理の成立の可能性とその根拠があるといえる。<br />
</p>]]>

</content>
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<title>堅ゆで卵</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://machidatetsuya.com/blog/archives/2010/05/post_80.html" />
<modified>2010-05-21T00:25:51Z</modified>
<issued>2010-05-21T00:01:57Z</issued>
<id>tag:machidatetsuya.com,2010:/blog/1.103</id>
<created>2010-05-21T00:01:57Z</created>
<summary type="text/plain">　卵からの連想もあった。 ー ハードボイルド（hardboiled）とは、元来は...</summary>
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<![CDATA[<p>　卵からの連想もあった。</p>

<p>ー<br />
ハードボイルド（hardboiled）とは、元来は「堅ゆで卵」、つまり白身・黄身の両方ともしっかり凝固するまで茹でた鶏卵のこと。<br />
転じて、感傷や恐怖などの感情に流されない、冷酷非情、精神的肉体的に強靭、妥協しないなどの人間の性格を表す言葉となる。文芸用語としては、反道徳的・暴力的な内容を、批判を加えず、客観的で簡潔な描写で記述する手法・文体をいい、アーネスト・ヘミングウェイの作風などを指す。また、ミステリの分野のうち、従来の思索型の探偵に対して、行動的でハードボイルドな性格の探偵を登場させ、そういった探偵役の行動を描くことを主眼とした作風を表す用語として定着した。<br />
主人公は軟弱な生き方を拒否するタイプが多いため、近年の日本作家の作風は冒険小説との境界が曖昧である。映画（主にハンフリー・ボガート）の影響から、トレンチコート（コートの中はスーツ）に身を包みソフト帽を被ったタフガイというイメージで語られることが多い。そういうイメージとしての「ハードボイルド」には、タバコの紫煙やバーボンなどの小道具、危機に陥った時の、それをものともしないような軽口も挙げられる。こうしたハードボイルド的イメージは完全に記号化されているため、この点を逆手に取ったパロディも多く存在し、「男性用のハーレクイン・ロマンス」（斎藤美奈子）という揶揄も否定できない面がある。<br />
ーwiki</p>

<p>　写真画像を眺めて、ハードボイルドだなと言葉がでたものだった。でもこの場合、冷酷非情、精神的肉体的に強靭、妥協しない、客観的で簡潔などといった印象としての言葉ではなくて、ハードボイルドが齎す余韻のような「どうしようもなさ」、あるいは「無邪気」と「浅薄な恣意の敗北感」がミックスされたような、近寄ってはみたが、どうすることもできない、無力感に近い。絶望とは少し違う。</p>

<p>　この印象の獲得は、心地良いものであると同時に、好きな女に胸を両手でドンと突かれたような、唐突な拒絶、存在否定で嬲られるようでもあり、わたしにとっては、この渾然としたパラドクスの力が漲っている光景でないと、とうとう失われる光景となって、記憶から追い出すようにデータは削除される。おそらく、この心地よさは、介入の容赦のない有り様が明示されているから生じるのであり、安易な解釈などあっさり切り捨てられることに起因する。</p>

<p>　死語の感の強い言葉を使い回すつもりはないけれど、こちらのこうした心地に適合する言葉はないものかしら。ミステリーというと、胡散臭い恣意で固めた茶番の解釈っぽいから勿論却下。</p>]]>

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<title>egg</title>
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<modified>2010-05-02T00:26:38Z</modified>
<issued>2010-05-01T12:04:42Z</issued>
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<created>2010-05-01T12:04:42Z</created>
<summary type="text/plain">　絵画の訓練という名目で石膏デッサンをしていたころ、こんな複雑な偽物の胸像ではな...</summary>
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<![CDATA[<p>　絵画の訓練という名目で石膏デッサンをしていたころ、こんな複雑な偽物の胸像ではなく、卵でいいのにと何度も思ったものだ。実際教えていた時には卵を、「そこに在るように描け」などと出鱈目に脅すように素描させていた。</p>

<p>　今は亡きナムジュンパイクの作品集を捲りながら、メソドレシピ作成の為にカメラを使って卵を撮影してみようかなと考えた時、在りし日の記憶が浮かび上がったわけだが、同時になんとも明快に、今のこちらの絵画と写真という再認識が風呂敷を広げるように目の前に広がる。</p>

<p>　おそらく徹底した技術を会得した画家の描く卵は、スーパーリアリズムで表現されるはずがない。綿密に描けば描く程、描いた行為の繊細が姿を顕すからであり、それはおそろしくも醜いものとなるしかない宿命を背負う。今風の3DグラフィクスやPCでの描写も同様であり、液晶モニターのドットに隷属する。「ほら本物そっくりでしょう」と胸を張る画家は、その偽物を売らねばならない。哀れだが、往々にして狡猾器用なこうした画家は、自らの技芸を売るのだと、僭越な確信犯となる。<br />
　この場合結局、絵画の卵が落ち着くのは「〜のようなもの」という、感応させる抽象であって、あれってもしかして卵ではないかという、問いを孕ませる「プレエッグ」という描かれ方にしか完結しないのは、絵画は単なるイメージでしかないという限定的な蓋然性においては仕方がない。<br />
　これは、絵画における「世界解釈」のネックであると同時に、踏み超えるべき線であり、絵画を行為や観念のほうへねじり倒してイメージであることから逃れる道もあるけれども、勘違いをしたまま、細密に卵を描く画家は、死ぬまで本物の卵に出会えないというわけだ。無論、それほど「卵」を希求する画家ならば、彼は本体的に画家ではなく、その意気地自体が、イメージなど必要としない別のなにものかということになる。故に画家は描く解釈と行為の中間で、時空に応じた綱渡りをするしかない。</p>

<p>　写真の世界解釈は、レンズの解釈であり、人間の傲慢とは種類が違う。だから、感応の技芸をそこに反映させるには、レンズとカメラに従属したまま、機器の恩恵の下で虎視眈々と、複雑に別の何かを構築しなければならない。時に、戦場を走り、時に、少女に媚びを売り。要求されるイメージを運ぶ配達人を覚悟する。</p>

<p>　いずれも、対象の世界解釈に躍起になると、同じ道を辿って、無駄な人生を空しく生きることになる。対象など棄てたほうがましというわけだ。だが、だからといって、光の明滅や模様や発作的な印象の無責任な放屁のような形は、結局、傲慢の中から這い出ることはできない。簡単にいってしまえば、絵画も写真も、そのイメージが、何にとってどのように作用するのかという、自明の最終的な世界定着を、基本に戻って構想しなければ駄目よというわけだ。<br />
　<br />
　だから、額縁絵画を描く画家も、報道や雑誌のグラビアを撮影する写真家も、似たような立場であり、同じ土壷の中にいる。</p>

<p>　　目の前の完成されているかに勘違いされる、絵画、写真の、あまりの不完全さ、稚拙さを再び大きく感じたのは、数日前にFMラジオから、平野啓一郎が、スティービーワンダーを薦めながら、最初はリラックスして癒されるが、アルバムを聴き終える頃には、自分も凄いものを創らなきゃあと鼓舞されるんです。と、おそらく、特異な楽曲の音響伽藍が複雑に構築された作品のバランス、配置の巧妙を指して、彼自身もそれを超える複雑で困難なプロット構築の必要性を感じている呟きと受け止めていたこともある。</p>]]>

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<title>肖像考</title>
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<modified>2010-04-15T19:09:40Z</modified>
<issued>2010-04-14T19:54:51Z</issued>
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<summary type="text/plain">ー 肖像（しょうぞう）とは、特定の人間の外観を表現した絵画や写真である。類似(肖...</summary>
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<![CDATA[<p>ー<br />
肖像（しょうぞう）とは、特定の人間の外観を表現した絵画や写真である。類似(肖似性)が求められる場合もあれば、理想化が求められる場合もある。芸術的な造形や精神性を示すこともある。代表的なものは、肖像画（絵画）と肖像写真（写真）である。ーwiki</p>

<p>　「肖像」などというと雛形や概念ばかり浮かぶものだ。家族に向けられるスナップ写真も肖像が現れる。ただこの時は、「肖像」とは誰も受け止めていない。勤め先のデスクに置かれた家族写真も同様。家族にとって「肖像化」が起こるのは、葬式などの、冠婚葬祭、つまり特異な節目だけであり、日常では肖像は、仏壇の奥に眠ったままであるのが、ほとんどだろう。これが意味するのは、「肖像」は外に向けられて（家族など共同体を内とすれば）固有の人間を示すということだ。時には、組織にとって固有の肖像（創立者やリーダー）が、都度明示される環境もあるだろうが（北朝鮮など）、これはこの国では現代的とはいえない。つまり機能的ではない。だが、裏返して考えれば、日々現代的な環境では個人の肖像など無用ということになる。（消耗されるタレントグラビアなどは個人肖像というより共有流通する商品と考えたほうがいい）</p>

<p>　自分自身を対象にすれば、selfportraitとなるわけだが、十年程前に、固有名に囚われ(今も弱く囚われ続けているけれども)、人の名前というものが、その存在を端的に示しながら、且つ、名前でしか示す事のできない存在のニュアンスが確かに、名前という表記自体（発音も含めて）に在ると頭を悩ませたけれども、肖像も同じように同時期から、日々魘される素材となったが、その悩みのほとんどは、wikiや、概念的な説明とは何の関係もない場所にある。</p>

<p>　例えば、景色と肖像（らしきもの）を並べると、その異様な差異に、併置すべきでないとさえ思う。肖像としかカテゴライズできない、人間の今日的姿、生の進行形の断片の、単なる免許証やパスポートの証明写真もそうなのだが、ありふれた認識観念の落ち着きの元では、景色と併置されようが、持ち物に添付されようがどうでもよいのだが、「肖像」の歴史的な文脈の果てに灯った、恣意や意図のかき消えた表象として凝視すると、昨今のテクノロジーのクリアさが更に手伝って、例えば、隠した整形痕さえ視認でき、状態の、プールから這い上がったあとに座ったような水の滴りも含め、あるいは、表情のふくらみを抑制した仕草の一部に、生の枝分かれを予感させた、ある種の、黙示の貫禄さえ漂わせる「肖像」が在る、生起していることに気づく。</p>

<p>　家族に対して「肖像」的なスタンスでカメラを向けることもあり、あるいはまた、特定の固有な人間に向かって、その人間を明瞭にしたいだけの目的で写真を撮影すると、「肖像」の、今だからこそ、意味を生成しはじめることのボリュームの大きさに、これまた途方に暮れて、再びまたレンズを向けてみようという、次元の異なった欲望が生まれる。</p>

<p>　そして、この欲望は、ダヴィンチのモナリザではなく、ほぼ百年後のベラスケス、フェルメールの眼差しにひどく似ている。だが、とはいっても、いまだ映像の世紀であるから、やはりレンズを向ける倫理的且つ現代的なメソドは必要となる。</p>]]>

</content>
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<title>Sense of incompatibility</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://machidatetsuya.com/blog/archives/2010/03/sense_of_incomp.html" />
<modified>2010-03-30T07:24:02Z</modified>
<issued>2010-03-22T05:41:46Z</issued>
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<summary type="text/plain">　不一致の感覚というとこれも違う。sense of difference　のほう...</summary>
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://machidatetsuya.com/blog/">
<![CDATA[<p>　不一致の感覚というとこれも違う。sense of difference　のほうが近いが、違和感という言葉の座り心地の悪さは、どちらも示しきっていない。この感覚は身体的には、ウイルスに犯された場合の異物認識や、通常時の差異の感覚が、不具合を認識するために作用し、また理解され、利用するが、精神的な、知覚におけるものは、意識しなければ、身体と同様に処理されているようだ。</p>

<p>　違和感を、だが、ある種の肯定的な受容知覚、あるいは、積極的な解析へと投じれば、機能的に考えてみても、対象認識の間口拡大とともに自省を孕んだ、知覚能力、精神的な土壌改変にも繋がることもあり得る。</p>

<p>　見知らぬ場所に立ち、はじめて目にするあたりを見回すように、このdifferenceを知覚機能として発動する「仕組み」として、いわば印象の付点を打つような、稚拙な試みは、絶えずおこなわれてきているけれども、問題は、その付点がいかにも浅薄な「その場かぎり」でしかないということであり、実は、見知らぬ場所のような「装飾」であったり、はじめてみるような「振り」である場合がほとんで、現実自体が、いかに見知らぬものなのかについて言及することを喪失している。</p>

<p>　そうした虚位のジレンマの集積の回路ともいえる社会で、意気地を無くすように生きれば、つまり、ぐるぐる回ってバターになるような、ステレオタイプの言葉が、いかにも王道として使い回され、差異を打ち消す働きさえ持ち、知らぬうちに凶暴な暴力となった、誰もが口にする一言で、differenceへ巡る繊細をずたずたに切り裂くことになり、加えて、当事者は、それに気がつかない。</p>

<p>　あまりに短い時間の中では、そうした救いの促しを、軸を歪ませずに行うには、回路の外側の縁に寄生する程度に立って、そうか、せめて一枚に残し示すことしかできないというわけだ。</p>]]>

</content>
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<title>川について</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://machidatetsuya.com/blog/archives/2010/01/post_78.html" />
<modified>2010-01-24T22:47:11Z</modified>
<issued>2010-01-24T22:20:30Z</issued>
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<created>2010-01-24T22:20:30Z</created>
<summary type="text/plain">　どんぶらこっこと大きな桃が流れてくる物語は、いわば川よりの享受、貰いものの話で...</summary>
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<name>machidatetsuya</name>
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<email>individual@machidatetsuya.com</email>
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://machidatetsuya.com/blog/">
<![CDATA[<p>　どんぶらこっこと大きな桃が流れてくる物語は、いわば川よりの享受、貰いものの話であるが、川は廃棄の場所でもあり、消去、切断、忘却、別れといったニュアンスを与える。</p>

<p>　生まれ育った地方都市を、三つの川が注ぎ込み交わる場所でなかったらと考えると、全てがひっくり返って、今を想像できない。</p>

<p>　川の無い場所もあるし、川を埋め立てて地下に隠蔽する都市構造もある。川があればどうだこうだということではなくて、川について考えることは、その歴史も勿論、現在の顕われは、予知に繋がっていると、ふと思った。予感、予知というものは、第六感などというより、あからさまな運動に支えられていなければ、そのベクトルの先端を示すことにならないからだ。そして予知は探求（疑惑）の契機として充分すぎる動機となる。</p>

<p>　水が移動すれば、その流れによって大気も移動し、土地は削られ、岩が転がり、人も流れる。いずれ海へ繋がるなどと考える必要もない。父親は病死した犬を川に埋めた。骸は腐る間もなく流れ去っただろう。</p>

<p>　湖を構想すると、窪んだ閉鎖空間が、風に煽られるような微細な差異の出来事となり、ただただ蓄積する。出来事が湖の中央を向くわけだ。それは成熟のモデルとして考えやすい。同じように川を考えると、どこまでも川縁を歩き続ける運動が生まれ、これには果てがないような心地もあり、切断の放棄感も絶えずそこにある。</p>

<p>　と、そういえば、秋川渓谷、奥裾花川、多摩川、千曲川、犀川、南木曽渓谷、荒川、浅川などなど、浮かぶ光景はあまりに多い。</p>

<p>　川について考えていると、ダムがさながら脳梗塞を想起させて邪魔をする。</p>]]>

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<title>着古したTシャツ</title>
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<modified>2010-01-21T14:26:34Z</modified>
<issued>2010-01-19T17:18:56Z</issued>
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<![CDATA[<p>　取り込んだ洗濯物をたたんで積み上げる。まだ陽射しのぬくもりが残っている。着古したTシャツや、靴下が丁寧に折り畳まれて仕舞われる。そういう手法に、あっと気づいて酔うようだった。</p>

<p>　哀切も、狂気も、矛盾も、アクシデントも、反射も、そうした洗濯物が仕舞われた空間でこそ、人間的であり現実的であるのかもしれない。何が一体どのように使い回され、使い込まれ、日常を形成している普段は見えないパラダイムを、再び襟元の草臥れたTシャツを何気なく着て自転車に乗るというように、構わずにいたって凡庸に広げることが、ひとつ倫理として肝心なのだろう。</p>

<p>　認識を都度あらためれば、繰り返される戒めの中に在って、わかっていることだが、ありふれているので、どこかに仕舞われてしまう。置き忘れてしまうようだから、見える場所に置かないと。</p>

<p>　</p>]]>

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<title>ネオプラグマティズム コンセンサス</title>
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<modified>2010-01-12T13:45:13Z</modified>
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<![CDATA[<p>　リチャード・ローティも確かに牽引した。もともと合衆国の空間が多種雑多の異種混合の共同体として、前世紀後半を走り抜けた中、プラグマティズムで明快な結果を示すことがコンセンサスとなりえたのだろう。映像や音響の、映画手法、コンサートPAシステムなども、より巨大なスクリーン、轟きながら解像度を保つ音響という短絡指向は、動員数に応じた開発が無理ではなかったこともある。</p>

<p>　この国でも人口に応じた、都市インフラというものはあるが、隣の国と同じ開発をすれば、たちまち赤くなるのは仕方がないにしろ、時差を呼び込んで、レアものへ手を付けることを控え、隣の国の次世代型へ移行するタイミングを見計らって、一世代前を安価に手に入れてきたわけだが、葛藤は残った。この葛藤を情緒でカヴァーするという根性は見上げたものだったが、諦めを背負ったような貧しい姿勢が育む卑しさはなかなか消えない。</p>

<p>　親たちの世代が食い物の話の中で、これは高級だなどという言葉を使うが、単に値段が張るだけのことであり、では日々低級な生活をしているのか、怒鳴りたくなる。映像や音の世界に現れる、顕著な工学的クオリティーは、時に、例えばコンサート会場の音響体験の次元を変容する力を持ち、演奏者自体も構築された音響空間で未知の経験をする。自らの声が全身を貫いて震える。馬鹿な人間は「俺って凄い」とか思うわけだ。映像を支える新たなカメラユニットによる新しい視覚経験も然り。</p>

<p>　いずれにしろ、下降するようなヒタムキさ、只管な態度の背中には、「高級」を憧れている路地裏の子供地味た匂いが漂う。単に「よいもの」とはどういう現れかということを、ネオプラグマティズム コンセンサスを踏み越えて行わなければつまらない。同時に知覚に備わる能力を成熟させる近道の、その入り口はプラグマティズムでもある。</p>

<p>　車のスピードメーターの限界速度を走ることができるのがプロダクトの要であり、ボリュームをマックスにして大音響を放出するオーディオシステムは、そのボリュームのキャパ自体、人間の知覚経験の提示想定内にあると考えるのは、少しもおかしくない。</p>

<p>　ただし、隣の国で夢中に開発している、得意げな3D映画というのは、見世物小屋の偽物を無理矢理大袈裟に見せられるような感触があり、バタ臭くていただけない。若い人間には、想像力という能力があるのに、これをこけにしているような気がする。年寄りの介護とかに使う方向をみせてほしいものだ。</p>]]>

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<title>歩くだけで</title>
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<modified>2009-12-13T06:55:32Z</modified>
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<summary type="text/plain">　雨の日の後、空が見えたので、放射線治療を終えて経過をみている叔父の見舞いに出向...</summary>
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<![CDATA[<p>　雨の日の後、空が見えたので、放射線治療を終えて経過をみている叔父の見舞いに出向く途中で車を止め、濡れそぼった林を歩くだけで、身体の軸の歪みが矯正され、皮膚にも張りがでる。ふと立ち止まって眺めるだけのことが瑞々しい。裸でプールを泳ぐような清心が満ちてくる。<br />
　まだ、ぽつぽつと肩に落ちる水滴の数を数えられるほどに雨が落ちたが、見舞いの後も、傘もささずにコートを着て歩いていた。</p>

<p>　函館での仕事の連絡が入り、了解の即答を返してから、ほぼ35年ぶりに北海道の地に立つ機会が訪れたことを、独り喜んで、折り合いがつけば、札幌の伯父宅に顔を出したいと考えていた。季節柄もあり、大袈裟なロケハンなど考えず、まずただ歩きたいものだ。</p>

<p>　最近になって、立ち位置、スタンス、考える土台、知覚する器の状態を、畏まって設定するのではなく、生まれ持った浮浪感、スライドする身体の運動の性質自体が、いってみれば、固有な思想なんだぜといっても、別に恥ではないと思うようになり、何かに切迫されるような観念を都度脱ぎ捨てることだけ戒めると、途端に楽になり、今となっては、つまらない事ごとに、いちいち感情を注いでいたような過去の記述をこそ、恥とみなしている。あれはあれでいいさ。かわいいもんだ。</p>

<p>　できるだけ良い状態とは、歩くことができることという、あまりに単純な答えには、然し、禅問に答えた清々しさと眼の前に荒野が広がるようなスケールがあるわけだ、これがまた不思議にも。<br />
　</p>]]>

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<title>視線は生まれますか？視座はありますか？</title>
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<modified>2009-12-07T06:01:14Z</modified>
<issued>2009-12-04T20:09:24Z</issued>
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<summary type="text/plain">　神の眼を真似る。獣の眼を模倣する。小さなロボットデバイスにカメラを取り付け、空...</summary>
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<![CDATA[<p>　神の眼を真似る。獣の眼を模倣する。小さなロボットデバイスにカメラを取り付け、空中から、また、海中からの視線を手に入れる。偵察衛生や、月面からこの惑星の地表を拡大俯瞰する。様々な視座、視線の発生するスタンスを仮設し、その眺めの場所というものが、光景を支えて、見えなかった状況を見えるようにしているが、実は、個々の人間の眼差しという視線のスタンスほど、わかりにくいものはない。<br />
　あなたは、一体何をみつめているの？煮詰まった恋愛のやや疲弊した囁きともとれる問いだが、なかなかみつめているものを明快に示すことはむつかしい。<br />
　三日前のこの時刻に何をしていたかを辿るなどする時も、みつめていた光景を探る方法より、前後の出来事の概略から、曖昧に首を傾げつつ多分そうであったとぼんやり推定する程度ではないか。人は絶えず盛んにみつめているわけではないから。<br />
　ドラマやスクリプトにみかける、刑事が過去の日時を示し、あなたは何をしていたか？と尋ねる設定がある度に、確信をもって答える姿勢こそ何か妙だと、幼いころから思っていた。<br />
　政治家の返答に、記憶にございません。という流行にもなった言い逃れと揶揄された台詞があったが、この返答に正当性はあると、得心を運ぶ響きは今もある。</p>

<p>　85mmの重いレンズのまま、眼の前に両手を伸ばして視覚の窓をつくったような狭い切り取りの、而も目的対象を探すようでないシャッターを押すことを続けていると、視座自体があやしくなり、この視線は見えていることと幾分違ったことなのだという体感に支配される。むしろ、撮影された画像を、過去の光景としてみつめて探索し直す際に、其処には、促される視座と、視線があるか？と問うている。更に、選び残るものは、確固とした視座、視線の漲る、コンセプチュアルな画像ではなく、此処に「視線は生まれますか？視座はありますか？」と、広く問いかける性質のものとなる。特定固有の時空にしか存在しない画像が、他の時空での存存を持続するためには、このニュアンスを持つ事が肝心だ。</p>

<p>　いずれにしても、この恣意の波にまみれた辿りの、レンズ、カメラという機能と結果が誘導する人間的な運動（解釈）は、どこか無関心の縁を歩みながら子供が熱中する奔放な遊びと、考古学や分析学の蓄積の認識到達が、渾然と同居している。<br />
　「みえる」という単純の、実はこれは一体どういったことなのかと、瞼の奥で真綿を締めつけられるような責苦の伴った辿りは、然し、ある時、どういうわけか実に鮮明に直線的に、紆余曲折を破壊する勢いで、ただ単に言葉の輪郭のまますとんと「見えて」しまう。<br />
</p>]]>

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<title>液体のような時間</title>
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<modified>2009-11-15T02:02:40Z</modified>
<issued>2009-11-14T11:12:02Z</issued>
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<summary type="text/plain">昼間できるだけ歩いて撮影し、夜には過ぎ去った記憶にも無いような光景を初めて眺める...</summary>
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<![CDATA[<p>昼間できるだけ歩いて撮影し、夜には過ぎ去った記憶にも無いような光景を初めて眺める気持ちで手繰り寄せることを続けていると、日々の現在という今の、金太郎飴の切断面のようなシャープさがわなわなとして、時間の溶液で溶け出す。そして、そんな曖昧な暮夜けが現在なのだと慣れる。肉体の話で済めばそれはそれでいい。</p>

<p>タルコフスキーのポラドイドを捲り、ドゥルーズのシネマ2＊時間とイメージを散漫に辿ってから、追悼の言葉が並んだような武満徹(1930~1996) 遠い呼び声の彼方へ（1992年発行）の最後に掲載されている「骨月ーあるいは a honney moonー妻へ」で、聖瑆に発光する澱みが繰り返し寄せてくるので、足首を溶液に浸して佇んだ。<br />
ー<br />
永遠に横たわるもの、それは死せるにあらず<br />
未知なる時の流れをもってせば死を超越せりー「ネクロノミコン」アブドル・アルハズレット<br />
(中略)<br />
　あなたは見過ごしたかもしれないが、新聞のコラムが、中国の山東省諸城県で発見された恐竜の化石のことを報じていた。ただこの「中國通信」は、一夜のうちに姿を消した漢代の遺跡のことはなにも報じていない。<br />
　最近、わたしはこの事件に関してかなり詳しく記された「人民中國」を手に入れて読むことができた。それには、奇跡的に生存した遺跡調査団の手記と併せて、古生物学者の学術的見解等が載せられている。<br />
　鴨嘴恐竜については説明するまでもないが、中生代に栄えた爬虫類の一種で、白亜紀末に絶滅したといわれている。水生または両生で、嘴のほかに火喰鳥式の冠が発達していた。後脚の肢間に蹼を張り前肢の爪は強く鋭かった。この化石が、漢代の遺跡からきわめて浅い地層にあらわれたことについて、古生物学者は、ここでも例によって、地殻の変動がその原因であろう、としている。「人民中國」の記事のなかで私の興味を惹いたのは、ソヴィエトの学者によってなされたつぎのような報告である。<br />
「ーこのTrachodonの化石は、これまでに発見されたこの類のものとしては最大のものである。しかも感謝すべきことには、上下顎角および頭蓋の構造、蝶形骨の翼部の微細な点にまで、なんらの損壊もみられないということである。さらに、学術的な新たな問題を示すであろうと思われるいくつかの重要な発見がなされた。それは、おそらく、この恐竜が咥えていたであろうと推測されるモクレン樹の化石が、中国種のChinensisではなく、アメリカ・モクレンの祖先として知られるヨーロッパProcacini種と酷似した特徴をそなえていたことである。また、恐竜の右前肢の橈骨が、石灰質とは異なって、ある種の合金ーああ、私は自分のこの考えがいかにも恐ろしくてならないのだが、その見解をためらわずに述べるならば、それは、プラトンの「クリティアス」に伝えられる、あの謎の金属オリハルコンではないかーによって接がれたものであるらしい痕跡が認められるのである。そこには金属にしか起こりようもない酸化によるかなりの腐食がみられ、不思議なことに、その骨は月のように皓くみえたのであった。ー」<br />
　以下、空想的なアトラントロジーが書き続けられている。<br />
　ソヴィエト学者が報告している「人民中國」の記事に興味をおぼえたのは、アトランチス伝説にまつわる謎の金属オリハルコンにことではない。その真偽はともかくも、いずれそれは確かめようもない事柄であるだろう。それよりも、私の注意をひいたのは、実は、そこに書かれていた「骨頭好像是潔白的月亮ー骨ハ月ノヨウニシロクミエター」という一行であったのだ。<br />
(以下、狂死した伯母の回想へ続く)<br />
ー骨月 / 遠い呼び声の彼方へ /  武満徹より抜粋</p>]]>

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<title>世界静止</title>
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<modified>2009-10-26T08:41:10Z</modified>
<issued>2009-10-23T17:07:17Z</issued>
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<created>2009-10-23T17:07:17Z</created>
<summary type="text/plain">　現実世界は個人各々が目の前に目撃しているものでしかないから、「現実世界」と表象...</summary>
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<email>individual@machidatetsuya.com</email>
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<dc:subject>note</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　現実世界は個人各々が目の前に目撃しているものでしかないから、「現実世界」と表象する場合、多くの差異を含むものであり、それが例えば、日本シリーズの試合の繰り広げられる球場の場合もあれば、突然の雹が降り注ぎ穴のあいた果実の畑も、逃げようのない現実世界となる。いわば個人的な理由による眺めがつまり現実世界であるといっていい。加えて、目の前の世界の出来事の様子によって、出来事の特異性が際立てば時に事件性を伴い、列車事故に向けられた報道カメラの画像は、出来事の克明な描写をいかに示しているかによって、その機能性を拡張する。事件性とはつまり共同体、共有地に向けた問題提起となり、共有するイメージとなる。然し、写真は、「共有するイメージ」である現実世界ばかりとは限らない。</p>

<p>　現実世界の「事件性」の欠如した画像は、共有すべきイメージとならない。雑誌に掲載されるグラビアも、報道写真も、眺める共有者に向かって発信される種類であり、自然を愛するアマチュアも、カテゴリー分けされた自画自賛のマイノリティーを形成する。それが欲動となるシャッターが押される。同時に、非常に個人的なシャッターが押されることがあるのは、カメラというプロダクトがまず最初に存在するからであり、カメラが在ることによって生まれる固有の断片が固有なる個人の元に脈絡無く堆積する。ただし、この堆積を個人は処理することを知らない。処理とは、アルバムを作って書棚に並べるということではなく、スレッダーに放り込むことでもなく、シャッターが押された理由、撮影によって画像に写されたイメージ、その反復を支える欲望、何が写されたのか、などに言及する術を、通常は持ち得ない。</p>

<p>　この言及態度によって写真が思想となることがある。だが、残された画像（イメージ）は、そもそも一体何かという「写真」自体の形而上学に囚われつづけることがなかなかできないのは、その横で大量消費されるイメージの楽観的な表象認識と廃棄が行われ、同時により高性能の解像度の写真というシステムの開発が進行するからであり、時に、それまで見えなかったモノがみえることもあるからだが、見える「世界」が更新され続けるいわば「時間論」と、肉眼による知覚というフィジカルな認識の揺さぶりが、時代性を伴うことで、「写真」という記録画像の意味の変容を、歴史性と現在認識との間において、未熟なツールとして改竄を繰り返すため、そもそもこれまで見ていた「写真」には、非人間的な現れとしてしかつき合えないという、「拒絶」の性格が刻印されている。</p>

<p>　レンズが光の瞬間、世界静止を克明な視覚イメージに限りなく近寄って遺すという、写真の、カメラも含めた道具と考えると、人間が骨を手にして動物を叩き殺した時、殺すという動機と骨を持つ手首の形状と握ることのできる骨の形状がアプリオリでなかった筈のように、遅延経験知のような、まだ使い方もその意味も知らない、未来からの贈り物のような佇まいを示すことがある。世界静止画像というひとつの凍結したイメージ自体がいまだ解析できない鉱物のような結晶存在として放られたままくっきり見えるというのは、非常に不気味でもある。</p>]]>

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