July 29, 1992

観念で自身を縛り、脅迫し、攻めていって、そういった月並みな追い込み方に草臥れた。
車を走らせ、巨大な岩がごろごろ転がる空間を眺めにでかけた。あまりの巨大さの故、流れに逆らい上流へ反発するように登ると云う岩の力は、こちらを突き抜けて上昇し、上空に舞い上がったと思ったら、その空間を見上げるように見下ろしていた。

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July 27, 1992

常識

つくったものを置く(放置する)ということと、置く(放置する)ものをつくるという差異に悩まされないで、置くことをつくるべきだった。だから、つくられるものがそれ自体でどこに置かれてもいいような自立性に、仕草が偏ると、制作者がオブジェをつくるだけの意味になるし、かといって「置く」ことが純化できないと稚拙なヂィスプレイに陥る。こちらがあらゆる状況、環境にまず依存して、それを呑み込んだ上で、置かれるものに、辺りを呼び込むような仕草を与えたいのだ。
 当て擦る仕草から、それを控えめに削ることを続けると、無根拠はいいが、無関心を装うような冷たい空間になる。こういったことがある程度繰りかえされた土壌があって、戦略的に行われる無関心は、新たな関心を呼ぶだろうが、装うこと自体が人間的と映らない意固地さになって閉じる場合が恐い。
 ぼくは、言語でものを考えないかわりに、絵画や彫刻で、ものを常識的に捉えることをしてきたわけだが、すべての表現が画布と台座に支えられるモダンな時代ではないから、表現を、人間的なシステムとして、態度として考えることが多い。その時危険なのは、寛容が働いて、怠惰を許してしまうことだ。世界に繋がっているという体感を空間に与えるには、批判的で洗練された手法が現われる必要がある。単に一瞬共同の意識が歪む程度の揺らぎを醸すことが作品の役割ではない。長い時間、空間に横たわって、存在を揺らすことは揺らして、横たわっているという存在を与えないといけない。
 放置するということは、自身の子供を生かせることに似ている。子供はエゴから弾きだされたものにすぎないが、だからこそ単独の存在を誇示する。これを眺める時、我々ははじめて人間的な視線を持つことになる。2ー30年も違った時代を生きる人間に、親の現在をゴリ押しするのは馬鹿げている。しかし、それしかできないのだから、そのゴリ押しは、せめて極めて常識的であるべきだ。なぜなら、今は都度現れる力に、あらゆる世代が等価に、而も瞬間に隷属してしまうような時代だからだ。制作はこのような世界にむかって放たれる。

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July 03, 1992

空間

ありふれていてそこに在るはずの空間は、何かを「置く」ことによって、はじめて見える空間になる(アリストテレス)。立体制作はそういった意味で直に空間を扱う仕草である。つくりあげたものを置くのではなくて、何をどのように置くかを創作するのだ。
 ただひとつのモノをぽんと置くと、空間は中心をもって閉じるから、幾つかのものを置くこととなった。これもそれぞれが都合の良い関係をつくりすぎると、ひとつのイメージにまとまってしまう。統合された空間を切り裂いて開くようにな空間を仕組みたい。そうして、ふたたび平面の制作をはじめよう。開かれた白い画布へ。フォンタナってやはりいつも浮かぶ。

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July 02, 1992

南へ

ビクトル・エリセのエル・スール「南へ」を観る。8mm のビデオテープにダヴィングして、一体何度眺めただろう。自身のリアリティーが失せて、体感も萎え、躰そのものが余計と感じられた時に度々みたように思う。物語は静かに語られ、ぼくだけにむかって開かれていく錯覚に任せ、虚構の少女が再び差異を与える。
 つぶやき。フェードアウト。かもめの家。国境と呼ばれる路。父。神話と愛のパラドクス。

 (音をたてると実験の邪魔よ) そういうことをぼくは辿っている。
 (何も考えないで、しずかにやってごらん。そうだ。頭の中をからっぽにして)
 (・・・それでいい)
 (パパ、まわっている)
 (そこだ。そのまま・・・・)(まわっている・・・)
  ミラグロスという天使。語りべであり潤滑するオイル。

 (南へ・・・)

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June 30, 1992

放置

置く(放置)ということを、前向きに考えるには、整理することと、乱雑に散らばることの、両方に触手を伸ばし両目で捉え、そのいずれかの選択をしないということだ。整理はある種の目的に達する。散乱は意味と統合を嫌う。こちらとしては自然の有様を模倣するするのではなく、人間的というこちらの性質を問うように、両極を批判的に使用したいのだ。置く事を批判するということは、勿論置かないということではなくて、置いて、そこに新たに置くという仕草を全面的に行うということだろう。置かれたモノは、置かれているのではなくて、在るという状態にさしかかるムードを持つことが大切で、そういった駆け引きが、制作そのものとなる。

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June 29, 1992

システム

つくる時、つくられたモノがはたして自立するのかを判断しなくては、前に進めないというのがむつかしい。こちらの意欲や眼差しの衰えがあるとして、そういったことを理由に作品の「作品」という言葉への依存を100%にしてしまうと、いつか吐気の気分にすべてを喪失する可能性がある。立ち戻れる制作とは、だから人生ではなくて、システムだ。

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June 14, 1992

斥力

「斥力」という概念が面白いのは、単純な力の関係であるからで、その裏側に引力という逆説を隠し持っているからいるからでもないし、反発する力を象徴構築する短絡的な言葉のもつ意味に惹かれるからでもない。斥力という性質ー(物体間において、互いに遠ざけようとする力)が、人間に作用するように、置く仕草を試みる時、併置に潜在する斥力の可能性を考える時、存在の孤立、排他的な存在の定着に陥ることなく、眺めが切り開かれてはじまる気配に満ちるからだ。存在に悪意があるとしたら、それはむしろこの斥力の欠如を示すのではないかと思う。

 斥力場という眺め自体、我々に宿る感想の類いであるにしろそれはそれでかまわない。そのものの、あのものへの遠ざけようと意欲する「形状」をつくること。自然は、単に断片の性質が投げ出されているにすぎない。過剰な仕草を与えると現実は嘘臭くなって、人間の肉の香りを漂わせる。モノがモノである空虚さを、誇るのではなく、我々がモノの性格、性質にやきもきして、焦れるように、「かたち」と「位置」と「表情」をみつけていく作業が、ぼくの立体制作である。人の仕草の象徴としての抽象能力の斥力場というもの。

 因に、引力、惹かれあう構造は、斥力を裏側に隠すけれど、そういった出来事はありふれている。所謂、「愛」は引力で語るべきではないということだ。

 整いの隙間から滲み出す乱れで、端的な立方空間をつくれないものか。乱雑なゲームにしないで、単純にとした挙げ句が、箱型であった。立方体は非常に便利な形態だ。

 睨み合いを睨む。消耗したビデオデッキを再生一時停止させ、画面がエネルギーの停滞に犯されて、ぴりぴり歪んでいる様子をそのまま数日眺める感触。ハードさえ壊れなければ果てがない。

 風景を現実としていかに捉えるかは、その方法よりも現実感という意識を回復させないとだめらしいが、ともかくこちらで、風景へ直接働きかけることで、余計で稚拙なイメジを払って、単純な現実をつくろうとする制作は、念力を開発して変幻自在に操ろうとする企みのようなものだ。時に観念も感想も朽ちて、輪郭のメリハリも消えて、どうしようもなくなる。だが痙攣するように身体は動く。そしてわけのわからない感覚で、イメジの残り滓を遠ざけようと、物理的な光景へ関わっていく。その反復が、ぼくの現実感になるのだからおかしなものだ。

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June 12, 1992

騒々しい

騒々しい。「騒々しい塊」を認識して、確認するだけの会話が横行する様は気持ちが悪い。制作はこんな具合の感想に、しかし煽られて行われている。つまり、観念に知恵と熟練を注ぐように、モノを眺めているわけではなかった。クルッと回ればなんとかなるという心持ちで、茫然とする自身を楽しんでいる。出来事は本来唐突に現れて、現在を瞬時変化させる。怠惰に甘えれば、愚痴に終わる。その遅れを嫌悪して、予感に頼る。歴史を全貌できる視線が、たちまちこちらに満ちるような時があったとしても、未来に関しては変換不能の、無知を気取りたい。確定的な仕組みには、撓みも、歪みも、豊饒もあるわけないとすると、瞬間たち現れるものは、不透明な存在でないとつまらないことになる。この不透明という加減、度合いが肝心だ。

posted by machidatetsuya : 10:17 AM | comments (0)

April 24, 1992

朝、薄暗いうちに目が醒めて、妻子の夢に忍び込まないように寝床を離れ居間を歩き回る。思うこともない。紅茶を啜ってから、制作室に立つ。陽のでるまでに片づけをしようとするが、きりがない。日々の汚れが、これも制作なのだと、簡単に放れるくらいになれないものだろうか。生真面目な悩みを強いて、意気地を意味にすりかえる時が多い。新しい大きな筆がほしいな。ピアノの曲を幾つも続けて流す。虫の音くらいにボリュームを絞っても、実によく響き渡る。

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April 20, 1992

ひとつの仕草、理念を追い掛ける時間が我が身と同一化するような人生は耐えられない。まっとうな人間の営みとして制作を考えているわけではないから。ぼくは制作者であろうとすると、淫らな考えにずれていく。これは、制作者の性質というよりも、ぼくの気性なのだと思う。絵画は画布と手首の関係なのだと切り詰めて、反復が充実するように仕組むと、空間に対する別の欲望が頭を擡げる。現実を制作において緊張と集中に満ちたものへ持続するための、わけもわからずにその場を凌ぐように泳ぐ感覚で、立体へ平面の未練など持ち越さないで移行し、またその佳境で端的な平面に憧れる。あっちへいったり、こっちへいったりが、ぼくの制作の構造風景と言える。

「三角関係」「3」ということを当て擦って、闇雲な制作があった。表現だよと胸を張るテーマ、ビジョンなどを祭り上げること自体、胡散臭い感触がはじまりからあった。何の変哲もない、ありふれたことから手をつけたかった。しかし、無関心、無根拠からはエネルギーが生まれない。みつめることに誠実であるしかなかった。ぼくは、だから平面作品と、立体作品と、スタディーを季節にあわせて、こちらを騙しながら、萎えるココロを嫌うように行っていくしかない。連関する効果や作用はあるだろう。分裂が極まる気配もある。そういう不安定な状態が、ぼくの求めている立場なのだろうな。

 三角関係というのは結局、それぞれが無関係を誇るようになると、それを鳥瞰できる場合、その眺めは飛躍的に存在を露にした構造を秘めるらしい。

posted by machidatetsuya : 10:14 AM | comments (0)

March 11, 1992

眉雨の続きを夜中に辿って、酒を呑みはじめた。そのまま眠ってしまったのだろう。ドラマの主人公になって、台詞を覚えようとしていた夢をみる。諳んじることができなくて、焦るばかりの短いものだったが、夢のなか不思議に思うこともなく、馬鹿馬鹿しく健気だった。

 自身の生活。他者の生。空間的に時間を捉えている作家。言語。疑い。死。科学。倫理。愛。3。根拠。ときてつまづく。

 朝まで酒を呑んで、むかつきながら昼を過ごす。手首が痛い。

 静謐な眼差しは、欲望にきらめいている。やたらうごかないこと。

 相手の瞳に光の揺れなどをみつけて、こちらが乱れることはある。そんな時はきまって、経験や知識や反射という枠から離れたところで、太古の微生物のように震えることにしている。ぶるぶるぶるぶる。

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March 05, 1992

反芻

このところ寒さが失せたと思っていたら三月で、記憶のなかの季節の匂いが突然鼻先について、あの時は、、、、と憶いだそうとする。眠れずにいる時間を、苛立ってすごしている。「マリジナリア」を読んでいる。時間の流れがはやい。ながされて、時々渦巻いて、禍。「眉雨」「斧の子」「叫ぶ女」と辿ったところで瞼がおりていた。古井由吉の作品は、読む度に、時間と空間に添って変容し新しい。

夢をみる。起きて、わけもなく夢を弁解がましく反芻する。夢など捨てるように生きてきたような気がした。現実感の喪失の証拠とみてとっても、身体には凶の兆しをそれと示すものがみつからない。だから尚のこと困ってしまう。

posted by machidatetsuya : 10:08 AM | comments (0)