July 17, 1991

戒め

現在、何を目撃したいと欲望しているのかと、意欲すること。

置くという仕草を鍛練すること。そこに置かれたものから、置かれた型とか制度化された行為をみるのではなく、むしろ置かれていない、そこに在るとしかいえない、在ることが生々しく見えるだけのこととしての印象を併置して、置くという純化を眺めたい。だからといって、極端に排他的な仕草は、むしろそういった意識がむき出しになる。きりつめるということは、無根拠にころがっている出来事を果敢に捉えたいと欲望する仕掛けであっていい。だから、つくるということは、この意識が働く状態をつくるのであって、その置かれるものの意味をつくるのではない。

積み上げられた形。反復があらわれる。労働の象徴では困る。奔放な、無責任に、見境なく放つ筆線には、容赦ない力が含まれるものだが、その力にも種類はある。あまりに人間的であろうとすると、人間一般の模範としかならない。出来事との狭間で駆け引きを行うこと。

 どうでもいいことは、従来の仕組みに従えばよかった。素材が全てではなく、手法が新しいということでもなく。

 制作者の身体性が、彼の快楽として片付けられると作品が台無しとなる。時間と空間に都度回帰して、あるいはまた離れようと欲するようなものでなければつまらない。制限された行為はある時倫理的な趣を漂わすが、それはペロッと裏返って暴力的な一方的なものともなる可能性がある。行為(身体性)を制限するのでなく、制作というシステムをきりつめること。

 豊かさがあってはじめて切り詰める意識のリアリティーが生まれる。不毛なのは、一度も破壊されず泥にもまみれず哀しい印象だけが愚痴となって積もり、自虐へ内向し、流れず、腐食せず、滅びない呪いとなる閉じた状況への無関心だ。限界から無限界を覗き込むようにしないといけないな。なにもみつめていないというのは、ひとつの悲劇だ。

 荒廃し断片が出鱈目に散乱し犯された神経にも気付かない時間がふくれる。独りきりでインでもアウトでもない場で制作するということだ。

 まがりなりにも単純なことをみつめられる時が日常に挟み込まれて、生活の他の部分が活性化することがある。そして、それによってまた状況は微妙に変化する。その微妙さに大きな差異と喜びをみいだすのが醍醐味のひとつだ。

 作品が制作するものにとって、その1点限りの宿命を背負うようなものになっていくとするなら、負の力に対峙することが仕組みであるなら、制作者は身体にいわゆる制作という時間、空間、運動を醗酵、熟成させることは難しい。然し、この1点という作品は、必ず絶えず彼の近くにあるが、その1点は裏切りと悪意と変化と距離と予感と、、、などを、変幻自在に呼び込む彼方に在る。

 気象のすぐれている時間に、日常の仕草を意識の果てで行い、その馴染んだ流れの端的な完成度に自身が驚くのと同じレヴェルで、筆をもちたいというわけだ。それは反復に裏打ちされて、鍛練というニュアンスも含む。作品化はことなった次元でのことと更に考えるわけだが、鍛練の結果がある時ふと表出するように工夫する必要がある。

 小さな予知として作品の完成は予想されて然るべきだが、明快且つ自在な荒野として扱う以上、辣韮の皮を剥くような反復に、その完成を越える充実がなければつまらない。

 連なるということは世界の在り方のひとつなので、特別な仕掛けではない。その連なりは断片として分裂する可逆の性質も勿論あり、統合と解体という斥力を孕む構造であるといえる。だから、連なっているダイナミズムを単に誇示するだけでは馬鹿みたい。

 ビジョンは作品の表面であり、制作者と一体のものかそうかは疑わしい。そんなことはどうでもいい。モノとしての絵画論は同時に歴史学の領域にあって、芸術とは異なる。作品は生の口実である。

 しかし、禅の行のような反復は、制作者を黒い箱に閉じ込めることになる。多様な時間と矛盾した空間の震えに身を投じた反復であってこそ、繰り返す意味が切実になる。従来の作品理論は壊されるべきだが、その壊し方をいかに論理化するかで、時間を無駄にする。単に壊す事。

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June 14, 1991

刃を研ぐように行為を篩にかけ、単純清潔にときりつめていくと、飾り気のない、特性のない端正なものがあらわれるけれど、そうする過程において背筋を貫いている意気地、依怙地さのようなものが、ちょっとした隙間に、とろっとのぞく。これが、おそらく艶と呼ばれる。

 立場とか態度とかを正面から広げると、その裏側の、対する総てに恨めしい物腰が匂って、姿勢の問題ではなくなり、ただの呪いとなる。立場や態度が、こちらやむこうを通り抜けどこか知らないところへ行ってしまう徹底した無根拠さを持って、表現を試みること。そして、更に、艶なども排除したい。そんなものいらない。まだ33だぜ。おい。

 説明されることのできない表象をみいだすこと。同時に幾つかの行為が眺められる時、ひとつの眼差しにおいては、共存できない構造を示すこと。見つめる事が、みつめながら視線を別の軸へと振る(誘惑する)運動となるような表象であること。

 最初に果てがある。この律を絶えず言語化すること

posted by machidatetsuya : 10:05 AM | comments (0)

June 11, 1991

伝達

集団が合法的に、あるいは信仰によって、あるいはなにかしらの力によってとりまとめられると、象徴としての絵画が生まれ、公というスタンスの熱狂を与えた。現代は様々な個の集合体として、まとまりのない全体をいかに解釈して、モノとして現わし試すかが個の表現となる。だがこれは、個が全体に反映する為のものではない。個から差異前提の個(他者)へのパーソナルな伝達を基本としなくてはつまらない。全体などないからだ。

posted by machidatetsuya : 10:04 AM | comments (0)

May 21, 1991

絵画と制作

スーパービジョンがあらかじめある場合、仕事は淡い意識を辿るような形をとる。夢の形を思い起こすようなそれは、然し、最終形態に怯えるようになるだろう。どちらかというと、何も決定されていない状態から決起するほうが、窮屈な仕草が、狭い了見というものがとれて、ぼくには筆を持つ必然が生まれる。困難は、そういったよくわからないものを絶えず孕み持つ立場を、均質に反復できるかにある。身からでた錆を処理するのではつまらない。泣きじゃくりながら放つこともあっていい。描くことが辺りを鮮明にするには、そういった単純なダイナミズムが必要でもある。時代は、様々な個に微妙な差異をイメージさせる。この微妙な違いを誤解しないで、いかに印象深く認識し変換するかだ。

 簡単明瞭な絵画は、眼差しを限定するように感じられるが、誰にとっての何がそうなっているのかという、問いと混乱を同時に示す。この世紀は、全体が個に積極的に関わりだしたということだった。独りの叫びが、全体の責任のもとでしか有効で無いという錯覚に充ちている。あと半世紀もすれば、倍となる人口を手首にかかえる作家を思うと、狂気以外の何も感じない。結局固有な生きるシステムの問題となる。滅びの気配とはだから、そんな肩に積もる疲労感に理由のひとつがある。全体が手のひらで眺められるそのあとは、整理、集約、統合などではなく、拡散、蒸発、離散へと走るだろう。そして砂漠にでも住処を持つのかしら。漂泊の誘惑は、結構準備されたものだった。

 ぼくは、土着の性質に興味を抱くが、民族的な語呂あわせのような、マイノリティー単位の集団性には思うことがない。どのような集団であっても、そこには全体という幻想が支配しており、逆様に閉じている。提携拡張する企業のような形態が、率先するだろうが、企業倫理の乱立はおそろしい。人間性が喪失するに違いないから。

 いわゆる地勢、気候、湿度から立ち上がる気配には、作品のシステム構築の上で、考慮しなければいけないことが多く在る。しかし、断層ってのは凄い。

 つくらないというこのモンスーン独特の価値意識は、制作しないということでは勿論ない。なにかをするけれど、余計なことをしない。その場を取り繕うようなまねをしない。潔く端正なあらわれを受け入れる。こういった享受自体制度化への要請を含む。これは老成のひとつだと甘く考えたいが、間違うと表現そのものの喪失へと繋がる。つくらなくても構築できる。つくらなくてもみつめられる。といった立場からつくらないという意志をつくる。創作の自由と意欲に無目的に充実できる無知の美術を学ぶ学生が、手にした観念としてはかなり残酷であった。しかし、つくられていない作品を目の当たりにして、何も手につかなくなった状態を想像するのは易しいだろう。つくるということが、観る者に隷属されているということが、つくらないことを示すことによって逆転し、みつめる意欲が、観る者に生まれるようになった。作品は、成立因をめぐって日常への、そのつくられない制作の糸口をさぐるようになる。丁寧に塗られた色の層と、汚い漆喰の壁が等価交換される。時間をかけて練り上げられたかたちから、放置されたものへと移動する。マスキングの境界から、普段のどこにでもありそうな際へと移る。こういった還元行為が、即制作として満ち足りているかというとあやしい。熟成へ至るための快楽の含まれた過程はどこにあるのか。

 瞬間認知を生むには、時の風と、それなりの決断を明確に示すことが必要だ。試行としてそういった行為が多くおこなわれ、淘汰されたとしても、熟成のための手段が用意されるべきだろう。でないと茶番となる。連続茶番に身を焦がすのも面白いかもしれないが、絵画がそういった離れ業をもつほど、眺めが単純になりはしないか。しかめずらした道化は、疲労感に溢れているものだから。だが、きりつめようという意識がぼくに絶えずあるのは、なぜかしら。

posted by machidatetsuya : 12:27 AM | comments (0)

May 20, 1991

画布

制作に向かう意欲が、老いていく実感とともに剥きだしになる。そういうことはあるだろう。身の回りの整理というよりも、恥を隠す算段に突然振り回されて、清潔な身形を装う土壇場が醜くも上手に演出される。これが半世紀も生を受けた躰ならまだしも、精液のしたたりを両手で塞ぐ、幼さが匂う有様の青年が、躓く程度の些細な出来事で、存在を憂いで見事に消沈し氷水を飲み込む。と同時に偏った老成が瑞々しい捉えたばかりの観念に添えられる。未熟をそのまま放りつけて無責任な厭世しか立場と選べない。またそうしたコトを受け止める社会という器自体の、ある依怙地さが逆に傍観の寛容を気取って、含む事を嫌わない。だが、なにかしらの変容の瞬間、不用を切り捨てる意志が突出してゴリ押しをはじめる。これがまた、こちらの醜い意欲と合致する。集団の目眩のような、癖のような傾向が、いつのまにか染みわたっている。そういう時代と考えて、懸命に励む生活を、遠くから疑いながら眺めている。そんな自身を切り捨てるために、否、切断する意味を加えて、ふたたび、制作をはじめていた。偏執とならぬよう気をつけてできることをしよう。

 本格的に画布へとシステムを洗練したのは、実に10年ぶりのことで、そのあいだにあやふやになっていた知識を直しながら、久しぶりで張るのに苦もあった白いものを、しげしげと眺めていた。ありもしないものを眺めるように、ぼうとして、作法も知らない座ることも忘れたような者が、茶の湯などを思った。利休茶を加えてどこかへ至るのではと、期待すらあった。抽象した象徴として素材自体から造形をはじめた者として、立体造形を横に置いて、仕草の抽象を清潔に顕す仕組みを画布とした。そのほかの、例えば画布の絵画の文脈など断ち切ってもいい。描くという行為を仕草と考える。卓上の静物を描くモランディーの画集を捲る。彼の指先の率直に動く時間が眺められる。

posted by machidatetsuya : 12:25 AM | comments (0)

May 06, 1991

記述開始

「天井岩」と「樹」の為の構想を練る。三本の樹と三つの天井岩が残る荒野。荒野という馴染みがないことに愕然とする。
 杉の世
 堕雨の世
 水底の世
 果てということ。
 終わる。どうしようもない終わりが終了する。遺跡。漂流。浮浪。静かに蒸発する沼。固有名がほしいな。木星。足跡。ピラミッド。羅列でいいから、、。完全な終了が横たわる。ミイラが霧になってずっと漂う。
 火山よりも、墓、墳墓群。蔦が忍び込んではいけない。終わり続ける終わりの形。鳥居。「神々」。塵。砂。積み上げる。積みあげらて、、。
流れる。
 断層の隙間に隠れ、拡大し、あるいは縮小する苔など。停止を反復する菌。バクテリア。超音波の視点ー意識の移動点からみた砂漠の光景は、懐かしいはずだと。
 淫夢でなかったか。
 6x6のカメラを手にいれて(クロサワからもらったバイクを売った金で、中古のゼンザ.ブロニカが、買えたのだった。暫く彼には黙っていた)、自身の作品を記録する,あるいは、作品をコンパクトに眺めるために使うようになった。眺めていないものまで描写される。現実を「現実」として切り取ると、私の眺めなどひとつの些細な感想にすぎないし、取るに足りないものであって、瞬間は実に複雑怪奇、豊饒である。こちらの目玉がカメラのようでなくてよかった。視力とは何の関係もない。

 カメラがふいに、意識を切り取りはじめる。

バチカンエントランスを見上げて。ベルリン。ゾックス。Sバーンの両脇の住宅と木々と潜り戸。パリのメトロ駅構内の曲線。八王子子安坂上。神楽坂。神の戸岩。「虎の子落とし」と名づけた滝壷。妻の写真。雲殿旅館のオンドル。仏国寺で深夜ではない早朝暗がりの中、であった若者と交換したテープは陽水のものだったかしら山本。飛鳥。レンタサイクル。ツンドラを鳥瞰したジェット機の窓がやけに小さかった。私の手。結局はこの手だと思う。筆の先。性器。娘の寝顔。空。朝の空。ブナ原生林。森。割れた樹木の内側に群れた蜘蛛が背中にはいって転がり落ちた。白い画布。炭化硅素の粒子。NHK教育テレビ。父親。川。河原。FRPでつくった偽物の岩を庭に取り付けたアルバイト。長田ビル。JR豊田駅。猿橋。

娘がこちらをみている。

意識の迷路が、複雑な庭園のように構築されているとありがたいのだが。ヨーロッパで眺めたそれと違って、ひとつ間違うと原生の森に戸惑い混乱するように出鱈目に、しかしきちんと深く。

見つめるということが、ボクの外側から訪れている。断片にこちらという現在の破片をあてはめて、意味を無理強いして、ボクは外側に在るんだなという感触。

....をしなければ....。という根拠のないコンプレックス。何もしない。という憂鬱。子供の癇癪声に似た歪みが喉でふくれていく。それはよいのだが、なぜ抑制へ傾くのか。

 寓話のような夢で、果てを眺めていた。「果て」だったかもしれぬ。何をしていいのかわからない、ヒステリックな甘い焦れに、ぼくは、むしろ満足していた。そして、そんな時間の過ごし方に異常なスピードで慣れていく。

 十五年も前の、かつての友人たちが、歳を重ねた風貌で突然現れてこちらを脅迫する。これまでの人生を徹底的に知られていたことに、お手上げだと降参すると、その瞬間から、何かとても愉快になった。

曖昧な断片を転がす。

 浅い森の記憶があって、山の湿った匂いから、湖の名残りを確信していたあの時が、机を前にした、真夜中の団地のこの部屋で、突然リアルに蘇った。

posted by machidatetsuya : 12:22 AM | comments (0)