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June 28, 2007

方法をめぐって


「方法」という言葉には、とりわけ注意深くあらねばならない。なぜなら、「方法」は、それが方法として在るところには、きまって存在しないからである。二流の精神が受け取り且つ応用するような方法は、すでに「方法」ではなく形骸にすぎない。「読む」ということは、いわば「方法」を読みとることだといってもよいほどである。
(中略)
小田切秀雄がかつて批判し、小田実がその後もっとも愚劣なかたちで批判した「内向の世代」は、あえていえば、こういう内向的条件だけを対象化しようとしたのであって、そのことが不毛なことは先験的に明らかだとしても、それに対置さるべきものはない。ただ「内向の世代」の文学を、”内側から”突きぬけるほかには。
(中略)
古井由吉はかつて大江氏のような都市インテリの自意識をカッコに入れて、いわば中世的な”私”の意識をめぐって、共同主観的な構造ー言語学・神話学・人類学的なーにいたろうとした。「内向の世代」の画期性はそこにあったが、それはあくまでも「私」の意識にとどまっている。中上氏はおそらくより内向的な作家として徹底し、あたかも”私”そのものが破壊されたかのような逆説的相貌をもってあらわれたのである。むろんこのような内的関係は、たんなる「対立」の外形によって隠されてしまっている。
私が明確にしたいと思うのは、さまざまな作品が相補的に助け合い戦後の文学を構成しているとか、すべてダメだという、いかがわしい共時性や党派性ではなく、それらの差異であり関係である。「差異」のみが歴史性の根拠である。

方法をめぐって/ 柄谷行人より抜粋

posted by machidatetsuya : 05:08 PM | comments (0)

June 21, 2007

特異な境界

1960年にカラーテレビが発売されたから、TVが家庭に均等に配置されたのが、1960年代後半と考えてよろしいとすると、それまでとそれ以後で、人間の精神形成の決定的な変化があったと考えられる。一方的な情報の提供を無意識的に享受する「テレビ以降」の人間は、日々共有する情報で生存域を拡張し、立場の差異(出自・系譜)を解消したとも云える。高度成長がこれに率直にリンクする。
「テレビ以前」の人間には、玉音放送で知られるラジオという情報デバイスがあったが、情報量として充分なものではなかったし、均一に拡張されたメディアではなかった。つまり、情報は奪取する意志において獲得するものであり、その立場にある者は限られており、無関心であり続けることも可能だった。社会も戦後の混沌期であり、均一ではなく、出鱈目も横行しただろうし、この「テレビ黎明期」は、世界的にみても、言語学的にみても、戦争よりも著しい変化の境界となって、それ以前とその後の社会を決定的に異なるものにしたと考えていい。

ーフランス語のTelevision(テレヴィジョン)、TVに由来し、teleは「遠く離れた」visionが「視界」の意味である。ーwiki

「テレビ以降」の高度成長期を、「テレビの出現」の驚きを持って過ごした世代と、私を含めた「テレビのある家庭」が当たり前の世代が、ほんの数年の出生範囲で居て、所謂昨今社会離脱の件でもてはやされる団塊の世代には、どちらかというと、そうした驚きの残滓があったように思われる。つまり彼らは、「テレビ以前」の差異に満ちた、闇が横にある世界を舐めた記憶のある最後の世代であり、以降の楽天的な安易な共有感覚と共に、彼らにははなにか秘密めいて孤立するしかない差異世界を覗いた感覚をも抱き続けていたと云えるのではないか。
こちらにしてみれば、団塊の世代が学生運動に走る姿自体滑稽であったし、アメリカに翻弄されるサブカルチャーそのものも、テレビ番組の中にインストールされたコンテンツとして薄っぺらに眺めていた。ただし、当時の大人社会はまだ黒々とたっぷりとした闇をたたえていた。

posted by machidatetsuya : 08:43 PM | comments (0)

June 07, 2007

ほとんどの

イメージ(視覚的像)は、非肉体的な構造(近代的ツール)の引き起こしたアクシデントとして、結果だけを人間の前に顕すから、結果をあらかじめ、恣意として動かす時、それは恣意と同時に用意された引き出しに仕舞われるしかない。
嚔で引き金が引かれた、不本意な発射という銃もあり、そこから始まった悲劇は、都度新鮮すぎるのであって、経験的倫理の内に説明することはできず、ただ引き起こされた環境のその後の描写という罪を意識で背負うことしかできない。
カメラも、見る事の装置という短絡よりも、銃の引き金と同様、偶発的なシャッターの瞬きによって、世界の現実併置が記録されてしまうのであって、それを意味深に、人間的な方向へ(これは絶えず過去へ向かう)ベクトルを与えることは間違っている。
ただし、言葉が物語によってしか、道具として生成成熟しないように、カメラという装置が残す写真というイメージも、夥しい量の果てに、洗練することもあるが、それは恐らくイメージの美的な洗練ではなく、人間の見るという能動的な欲望の眼差しが空間に充満するような、レンズと像の定着のクオリティーの洗練であろうし、それによって、「見えること」の肉体感覚も変化せざるを得ない。
写真はだから、匿名性というカメラの構造が、撮影者という恣意を打ち消す、原子爆弾のようであるべきなのかもしれない。そして近い将来、記録された画像から、考古学のような解読の技術が注がれることで、まるで琥珀と同質の鉱物の性格を新たに纏うだろう。
数百万画素とデバイスの開発を誇るデジタル画像が、進化すればするほど、これまで無頓着だったフィルムのクオリティーにようやく気づくという、変換(コンバート)の黎明期にいて、現象の世紀であった20世紀の、現在からみればささやかすぎるイメージの記録総量に、悔いる時がくる。
写真のルネサンスは、報道、ドキュメント、記録、広告、といったカテゴリーを一掃した、構造原理主義に似た形で訪れる筈であり、その時は、夥しい量のイメージをデジタルであれ、フィルムであれ、歴史化しソートし再解読する手立てが整ってからでないと始まらない。

だから、絶句する「写真」を事故として、瞬きしてしまったメラを持つ人間が、新しい倫理的な写真家となるのではないか。そしてこの場合の写真作品はアートとは無関係であり、むしろアートを切断し無効にてしまう力を帯びなければつまらない。

posted by machidatetsuya : 04:38 AM | comments (0)