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December 19, 2005
歴史の反復について
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たとえばドイツ人は、いまのドイツの憲法は占領軍によって押しつけられたとはけっしていわないでしょう。なぜかというと、そういう論理を第一次大戦後に使ったことがあり、その結果、何が起こったかを知っているからです。それに比べて、日本人は初体験だから、もしかすると、もう一度失敗しないといけないのかもしれない。だから、最初に述べた話に戻っていうと、私は湾岸戦争以後、日本は近いうちに憲法九条を放棄して戦争に参加するだろうと予想していました。ただ、その結果痛い目にあって、戦後60年にあたる2005年にはあらためて戦後の憲法九条の意義を確認するということになるのではないか、と。そういう「自然の狡知」を考えていたのですが、実際にはそうならなかった。
しかし、それが先延ばしになり今後に悲惨なことがおこるとしても、結局、憲法九条を確認する時期は必ず来ると思います。そして私はアメリカでも、ベトナム戦争後にアメリカ人がもった「超自我」が戻ってくると思います。その時点では、アメリカ人は世界最初の核戦争にかんして、自分たちが広島、長崎に行ったことに対しても反省すると思います。そして、その時にこそ、国家の主権の放棄ということが起こると思うのです。そのような歴史の見直しが必ずそう遠くない未来にあると思います。ー
近代文学の終わり/第二部国家と歴史/歴史の反復について/柄谷行人より抜粋
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December 01, 2005
重森弘淹(1926~1992)
ーもしそうだとすれば、カメラは眼以上に見るものとして、眼とはちがった見方をするものとして、人々は期待していたわけになるが、もちろん、当初はそのことに、人々は当惑もしたのであった。しかし、現実的にカメラは、視覚のうちに入らぬものを可視の世界に引き入れ、また純粋に見ることで、存在の純粋客観性に気づかせた。意味される以前の存在を発見したのである。そのことによってカメラというもうひとつのまなざしは、もともとのまなざしに、ひとつの衝撃を及ぼしたといえるだろう。
つまり<見る>ことが、肉眼に所与のものとしてだけ自覚されている間は、まだ<見る>ことの意味はそれほど明らかなものではなかった。平素、見て終わるだけのものが、写真となって見えるものとなったとき、言い換えれば見終われば消えて行く世界を、もう一度見ることによって、まなざしの対象化が可能だと発見したのである。このとき、見たものをもう一度見ることで、新しく見えるものを発見し、あらめてまなざしの重要さを、自覚したといえるだろう。カメラ・アイは人間のまなざしと主体的な関係を確立する契機を発見したということができる。ー
物質の眼のリアリティー4/(1977脱稿)Koen Shigemori 重森弘淹(1926~1992)より抜粋
posted by machidatetsuya : 05:50 AM | comments (0)