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October 23, 2005

光景への始動メモ

その光景が顕われる条件を検証すると、どうやらその光景に至った物語というより、経緯が必要であり、それはごくありふれた状態の連鎖でなければ、例えばコップの水は減ったまま、そこに置かれていないということになる。配置への道筋を組み立てるには、場所が先にあるべきではない場合もある。光景の時間も、朝であるか、昼であるか、夕方であるか、夜であるかを、光景の質に問うことにすると、その光景の眺めの時間軸と眺めの主の享受の姿勢も仮設しなければいけない。

家族が朝の身支度を済ませ、自宅を出払った後の食卓の片付けが、こちらに任されたまま放置され、夜通しの仕事の縁でそれを眺める時があって、食卓の、食べ残された朝食やミルクが残ったグラス、卓上にこぼれたパン屑、水滴などに、朝の家族夫々の慌てた仕草が残っていて、苦笑しながら片付けるのだが、では、こうした状態を仕組むとなると、家族ひとりひとりの目覚めから行動を追って、仕草に至った経緯を重ねないと、グラスにミルクは残らないし、パン屑に、意識が乗り移り、心のトラウマを訴える暗号のような不要な意味を持つこともある。

唐突に、配置によって状況を顕すことは簡単だが、その状況が光景としての意味を持つ事が肝心で、例えば、青年の頃幾度か川の流れの中に椅子を置くことを試したが、椅子は部屋から運んだままであり、いかように置いてみても、川の流れという環境に逆らい続ける存在でしかなかったが、その椅子を引きずりながら流れの中を歩む人間が顕われると、川はトータルにその動きを含み、光景の質が変化したことがある。それを切っ掛けに川や森にでかけ、配置を撮影する試みを繰り返していた時、ヤマシタという男が川の中に落ちてあった石を選びながら、自身の頭に乗せて、落とさないように足下を身体で探るように歩む行為を行い、それを記録したが、それも、石と人間と川が状況をひとつにまとめあげて、なぜかリリックな風情を醸しながら、川の音や辺りの反響が、妙に冴え渡って聴こえたものだ。ヤマシタは以降、頭石というパフォーマンスに切り詰めて、こちらとユニットを組み幾度かコラボレーションすることになったが、今でも印象的な光景として残っている。

最近、遅々と繰り返しているエスキスには、必ずテーブルが片隅に在り、置かれている場所の想定は、森か湖か草原の手前、雨上がり若しくは小雨が降っている朝で、テーブルの上には、朝方まで続けた宴会の残骸が残り、倒れたワイン瓶には、液体が残っていて、チーズがこびり付いたままのナイフや、吸い殻の溢れた皿がある。脇には焚き火の跡があり、小雨のなか燻って、弱い煙の筋を立ち上げ、だが、人気は無い。(靴下の脱げかかった足首があるというエスキスもあったが)このひとつの光景の為に準備すべきことはまだ多い。おそらく樹々の中であるという状況は、配置されるモノが際立つ為に用意されている。小雨は状態の経緯の時間を示す。人気が無いというのは、宴の参加者の肉体は酔いつぶれてどこかに倒れているということも考えられ、これが夕方だと、それまで放置され片付けられていない切迫感が光に顕われ、光景に事件性を付与してしまう。
テーブルの上の生ハムや野菜や肉や魚の残滓自体が、参加者の性別年齢、生活者の環境を意味するので、克明すぎては余計になる。
と、ようやくここで、テーブルのプロダクトの構造計画に踏み切れるわけだ。

posted by machidatetsuya : 03:54 AM | comments (0)

October 22, 2005

目蓋を開けると瞳は光を感応するから、闇の中で目蓋を広げても何も受け止めることはできない。これは瞳に光が宿っていることを意味しない。つまり目の前がこちらよりまず先に在る。目の前に遅延して感応がはじまる。こうした記述も同じであるから、記述の手前に、言葉などこちらに宿っていない。記述によって顕われる形が、様々を遅延して呼び込み、連鎖を生むにすぎないから、記述をその手前で悩むというのは走らないランナーということになる。現在を開くのはだから、とりとめもない顕われの無制限な許可と遅延感応の学習によって形作られる「わけのわからない今」ということしかできない。
おかしなもので、こうした「わけのわからない」今が堆積して「今」が変容するけれども、いつになっても変わらない「今」が顔を出して、それは美しもあり、同時に醜くもあり、間違っていながら正当であるものだ。
砂漠など縁もない場所で、流砂を想うようなことが、果たして有効かどうか迷うのが、未熟であるとすると、迷わず想いを念いに投げ出すことが成熟だと、わたしはかつて、おかしな決定をしたものだ。
緩慢に色あせ埃にまみれた「(岸辺の)アルバム」を眺め、色褪せの退化とシンクロした過去を憶う時代ではなくなり、緻密な歴史の学習をするように、様々なメディアで時間を遡り、自身に関する克明な時間と空間を取り戻すことができるようになったこの時代の環境によって、おそらく過去は、情動的な装いをやめて、現在を感応レヴェルで刺激する。
どうやら、闇に取り込まれる日が近づいている気配が日に日に増すので、光自体の強度という光景に対する、こちら側の睨みの強化学習を意識的に戒めて行う必要が濃厚になってきたようだ。

posted by machidatetsuya : 12:55 AM | comments (0)

October 14, 2005

quotationの解析

Luxor Beyond(2002)の放下へ、気楽にあっさり眺め戻ることは度々あったが、冬にかけてあの時のquotationを解析する時間を得ようとしているのは、planの示したことが、「みつめ」と「場所」の準備でもあったと、認識を新たにすることになったからで、これは、数日前の鳥瞰という何気ない付与が切っ掛けとなった。
抽象は案外モノにまっすぐに繋がるものだ。私の場合、挙げ句唯物に短絡した経緯がある。その短絡を狂うように生きる立場などはじまりから無かった。泥いじりのような快楽に耽る位相を探そうという自覚が遅く訪れたのは幸不幸の問題ではない。更に加えて、きっと捏造されているに違いないイメージの再現という手法にも、支える行為に埋没没頭するしかなく、結局こちらが全的に投影されてしまうので、プレイメージの計画という処で、寸止めするように、静止する必要があった。仮の土台がバーチュアルであっても、ある種の具体性を引きずった(微細な、どうでもいいような状態)目の前の光景のヨウナ状態へ手がかりを探したのは、つまりそうした探索の、コンセプチュアルな正当性(情動も抑制も含まれた)の王道を学習する為であったと、今になっては思われる。そして、その成果は、撮影のアプリオリな構築手法である態度の切断に近い抑制の仕方の確認と言っていい。
例えば撮影機器(カメラ等)の原理的な仕組みには、時空に沿って依存すればいい。光と状態の位置を探す反復を作法として磨くために、手応えを得ることを目的としたロケハンを繰り返すという間違いを予め切り捨てなければいけなかった。現場特有相応の快楽で決定する位置などは、時として曖昧に涙で霞むこともあり、それに酔うと無意味で長大な時間を背負うことになる。且つ、スナップなどで得る、瞬間的に訪れる偶然的な展きを、受け止める余裕がないので外す。手を触れずともうねるようにうまれる差異に溢れた無限の「みつめ」から、ひとつを決定する。決定が思弁的にならぬよう、訓練された「みつめ」が、決定に率直に見いだされる余裕は加えたい。

posted by machidatetsuya : 11:36 PM | comments (0)