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May 21, 1991
絵画と制作
スーパービジョンがあらかじめある場合、仕事は淡い意識を辿るような形をとる。夢の形を思い起こすようなそれは、然し、最終形態に怯えるようになるだろう。どちらかというと、何も決定されていない状態から決起するほうが、窮屈な仕草が、狭い了見というものがとれて、ぼくには筆を持つ必然が生まれる。困難は、そういったよくわからないものを絶えず孕み持つ立場を、均質に反復できるかにある。身からでた錆を処理するのではつまらない。泣きじゃくりながら放つこともあっていい。描くことが辺りを鮮明にするには、そういった単純なダイナミズムが必要でもある。時代は、様々な個に微妙な差異をイメージさせる。この微妙な違いを誤解しないで、いかに印象深く認識し変換するかだ。
簡単明瞭な絵画は、眼差しを限定するように感じられるが、誰にとっての何がそうなっているのかという、問いと混乱を同時に示す。この世紀は、全体が個に積極的に関わりだしたということだった。独りの叫びが、全体の責任のもとでしか有効で無いという錯覚に充ちている。あと半世紀もすれば、倍となる人口を手首にかかえる作家を思うと、狂気以外の何も感じない。結局固有な生きるシステムの問題となる。滅びの気配とはだから、そんな肩に積もる疲労感に理由のひとつがある。全体が手のひらで眺められるそのあとは、整理、集約、統合などではなく、拡散、蒸発、離散へと走るだろう。そして砂漠にでも住処を持つのかしら。漂泊の誘惑は、結構準備されたものだった。
ぼくは、土着の性質に興味を抱くが、民族的な語呂あわせのような、マイノリティー単位の集団性には思うことがない。どのような集団であっても、そこには全体という幻想が支配しており、逆様に閉じている。提携拡張する企業のような形態が、率先するだろうが、企業倫理の乱立はおそろしい。人間性が喪失するに違いないから。
いわゆる地勢、気候、湿度から立ち上がる気配には、作品のシステム構築の上で、考慮しなければいけないことが多く在る。しかし、断層ってのは凄い。
つくらないというこのモンスーン独特の価値意識は、制作しないということでは勿論ない。なにかをするけれど、余計なことをしない。その場を取り繕うようなまねをしない。潔く端正なあらわれを受け入れる。こういった享受自体制度化への要請を含む。これは老成のひとつだと甘く考えたいが、間違うと表現そのものの喪失へと繋がる。つくらなくても構築できる。つくらなくてもみつめられる。といった立場からつくらないという意志をつくる。創作の自由と意欲に無目的に充実できる無知の美術を学ぶ学生が、手にした観念としてはかなり残酷であった。しかし、つくられていない作品を目の当たりにして、何も手につかなくなった状態を想像するのは易しいだろう。つくるということが、観る者に隷属されているということが、つくらないことを示すことによって逆転し、みつめる意欲が、観る者に生まれるようになった。作品は、成立因をめぐって日常への、そのつくられない制作の糸口をさぐるようになる。丁寧に塗られた色の層と、汚い漆喰の壁が等価交換される。時間をかけて練り上げられたかたちから、放置されたものへと移動する。マスキングの境界から、普段のどこにでもありそうな際へと移る。こういった還元行為が、即制作として満ち足りているかというとあやしい。熟成へ至るための快楽の含まれた過程はどこにあるのか。
瞬間認知を生むには、時の風と、それなりの決断を明確に示すことが必要だ。試行としてそういった行為が多くおこなわれ、淘汰されたとしても、熟成のための手段が用意されるべきだろう。でないと茶番となる。連続茶番に身を焦がすのも面白いかもしれないが、絵画がそういった離れ業をもつほど、眺めが単純になりはしないか。しかめずらした道化は、疲労感に溢れているものだから。だが、きりつめようという意識がぼくに絶えずあるのは、なぜかしら。
posted by machidatetsuya : 12:27 AM | comments (0)
May 20, 1991
画布
制作に向かう意欲が、老いていく実感とともに剥きだしになる。そういうことはあるだろう。身の回りの整理というよりも、恥を隠す算段に突然振り回されて、清潔な身形を装う土壇場が醜くも上手に演出される。これが半世紀も生を受けた躰ならまだしも、精液のしたたりを両手で塞ぐ、幼さが匂う有様の青年が、躓く程度の些細な出来事で、存在を憂いで見事に消沈し氷水を飲み込む。と同時に偏った老成が瑞々しい捉えたばかりの観念に添えられる。未熟をそのまま放りつけて無責任な厭世しか立場と選べない。またそうしたコトを受け止める社会という器自体の、ある依怙地さが逆に傍観の寛容を気取って、含む事を嫌わない。だが、なにかしらの変容の瞬間、不用を切り捨てる意志が突出してゴリ押しをはじめる。これがまた、こちらの醜い意欲と合致する。集団の目眩のような、癖のような傾向が、いつのまにか染みわたっている。そういう時代と考えて、懸命に励む生活を、遠くから疑いながら眺めている。そんな自身を切り捨てるために、否、切断する意味を加えて、ふたたび、制作をはじめていた。偏執とならぬよう気をつけてできることをしよう。
本格的に画布へとシステムを洗練したのは、実に10年ぶりのことで、そのあいだにあやふやになっていた知識を直しながら、久しぶりで張るのに苦もあった白いものを、しげしげと眺めていた。ありもしないものを眺めるように、ぼうとして、作法も知らない座ることも忘れたような者が、茶の湯などを思った。利休茶を加えてどこかへ至るのではと、期待すらあった。抽象した象徴として素材自体から造形をはじめた者として、立体造形を横に置いて、仕草の抽象を清潔に顕す仕組みを画布とした。そのほかの、例えば画布の絵画の文脈など断ち切ってもいい。描くという行為を仕草と考える。卓上の静物を描くモランディーの画集を捲る。彼の指先の率直に動く時間が眺められる。
posted by machidatetsuya : 12:25 AM | comments (0)
May 06, 1991
記述開始
「天井岩」と「樹」の為の構想を練る。三本の樹と三つの天井岩が残る荒野。荒野という馴染みがないことに愕然とする。
杉の世
堕雨の世
水底の世
果てということ。
終わる。どうしようもない終わりが終了する。遺跡。漂流。浮浪。静かに蒸発する沼。固有名がほしいな。木星。足跡。ピラミッド。羅列でいいから、、。完全な終了が横たわる。ミイラが霧になってずっと漂う。
火山よりも、墓、墳墓群。蔦が忍び込んではいけない。終わり続ける終わりの形。鳥居。「神々」。塵。砂。積み上げる。積みあげらて、、。
流れる。
断層の隙間に隠れ、拡大し、あるいは縮小する苔など。停止を反復する菌。バクテリア。超音波の視点ー意識の移動点からみた砂漠の光景は、懐かしいはずだと。
淫夢でなかったか。
6x6のカメラを手にいれて(クロサワからもらったバイクを売った金で、中古のゼンザ.ブロニカが、買えたのだった。暫く彼には黙っていた)、自身の作品を記録する,あるいは、作品をコンパクトに眺めるために使うようになった。眺めていないものまで描写される。現実を「現実」として切り取ると、私の眺めなどひとつの些細な感想にすぎないし、取るに足りないものであって、瞬間は実に複雑怪奇、豊饒である。こちらの目玉がカメラのようでなくてよかった。視力とは何の関係もない。
カメラがふいに、意識を切り取りはじめる。
バチカンエントランスを見上げて。ベルリン。ゾックス。Sバーンの両脇の住宅と木々と潜り戸。パリのメトロ駅構内の曲線。八王子子安坂上。神楽坂。神の戸岩。「虎の子落とし」と名づけた滝壷。妻の写真。雲殿旅館のオンドル。仏国寺で深夜ではない早朝暗がりの中、であった若者と交換したテープは陽水のものだったかしら山本。飛鳥。レンタサイクル。ツンドラを鳥瞰したジェット機の窓がやけに小さかった。私の手。結局はこの手だと思う。筆の先。性器。娘の寝顔。空。朝の空。ブナ原生林。森。割れた樹木の内側に群れた蜘蛛が背中にはいって転がり落ちた。白い画布。炭化硅素の粒子。NHK教育テレビ。父親。川。河原。FRPでつくった偽物の岩を庭に取り付けたアルバイト。長田ビル。JR豊田駅。猿橋。
娘がこちらをみている。
意識の迷路が、複雑な庭園のように構築されているとありがたいのだが。ヨーロッパで眺めたそれと違って、ひとつ間違うと原生の森に戸惑い混乱するように出鱈目に、しかしきちんと深く。
見つめるということが、ボクの外側から訪れている。断片にこちらという現在の破片をあてはめて、意味を無理強いして、ボクは外側に在るんだなという感触。
....をしなければ....。という根拠のないコンプレックス。何もしない。という憂鬱。子供の癇癪声に似た歪みが喉でふくれていく。それはよいのだが、なぜ抑制へ傾くのか。
寓話のような夢で、果てを眺めていた。「果て」だったかもしれぬ。何をしていいのかわからない、ヒステリックな甘い焦れに、ぼくは、むしろ満足していた。そして、そんな時間の過ごし方に異常なスピードで慣れていく。
十五年も前の、かつての友人たちが、歳を重ねた風貌で突然現れてこちらを脅迫する。これまでの人生を徹底的に知られていたことに、お手上げだと降参すると、その瞬間から、何かとても愉快になった。
曖昧な断片を転がす。
浅い森の記憶があって、山の湿った匂いから、湖の名残りを確信していたあの時が、机を前にした、真夜中の団地のこの部屋で、突然リアルに蘇った。
posted by machidatetsuya : 12:22 AM | comments (0)