July 01, 2009
composite
過去オーディオシステムをコンポと呼んでいた。コンポジット(composite)とは複数のものを合成あるいは組み合わせたものを表す。合成というと、ひとつのかたちに統合された、されてしまった意味合いとなるが、本来無関係な複数のものの併置と考える可能性は、この無関係という意味でまだ残されている。
統合を理念として、断片が、ある統合にむけたパーツの機能をあらかじめ目的とされて生成されているこれまでのコンポジットではなく、併置された複数のものそれぞれに内在する自己完結機能が、他との無関係性においてまず顕著にあるというところから始まる。ロシア構成主義はConstructivismとされ、この場合構成派と翻訳できるように、構成される事柄よりも構成すること自体の意志を示す。この場合compositionは、併置された広がりを示す。
社会疾患の解決策として、さまざまな独自機能を持つ機関の新しいコンポジットにより、その疾患の根本的な治癒が可能と分析され、現在さまざまに実践されつつあるように、このコンポジションとしてのさらなる広大な光景の設計が必要と思われる。
そういう意味での、設計(プランニング)とは、ひとつの社会疾患に対応するだけではなく、臨機応変に諸々な事象への照応も可能とならねば、特異で限定的なコンポジションに成り果てる。例えば、ソーシャルワーカーの組織およびスキル機能が併置され、医療機関が併置され、教育機関が併置され、行政の緑化が併置され、そこにアートを併置する場合、そのコンポジットのファンクションが、ひとりの自殺未遂者の、再び薬を飲む繰り返す行為自体を根源的に抑制あるいは停止させる為に、引き金となった環境下での人間関係の洗い出し、抱えた負債の返済の解決、社会的な生活費援助システムの投入、医師による精神および肉体治療、リハビリをかねた社会復帰などを、同時進行させる円卓として、機能を集積させる場としてのアートとは?
本来社会とは、無関係な事象のコンポジットであったが、個々の独自ファンクションが、個別を解決してきたが、昨今の事情は複雑であり、疾患の原因は菌糸のようにあらゆる隙間に浸透している。肉体が修復されても環境は放置されたままであり、疾患が再発するようになり、その潜在的な不安は広まっている。
疾患の治癒が最終目的ではない。コンポジットが検証されながら、深化し、ファンクションレヴェルの質を上げながら、共有空間を最提示しつつ、「我々の生きるべき世界とは何か?」を絶えず言及することにある。設計されたコンポジションによって、個別の無関係なファンクションに、別のファクターと責任が生じ、都度アップデートを迫られるということになる。そのアップデートによっては、ファンクションの根本的な意義や目的の変容も余儀なくされることもあるだろう。そういう共有空間の設計のプロンプトとしてアートが準備され発動されるべきではないか。この場合、所謂現在ソーシャルアートと示されている「戦うアート」との違いは、ファンクションリクエストによるアートアップデートを前提とされたものであるかどうかにある。
さて。
posted by machidatetsuya : 05:50 AM | comments (0)
June 27, 2009
相克
ーどうでもよいことは社会に従い、芸術は自分に従うーとは小津の言葉だったか、幾度か記述の際に浮かぶ。
自己の探求に命を削る作家という生き物は、エゴを突抜けた場所に立つ為に、頑強なエゴを構築するというパラドクスを愛すしかない。ただ、それだけではあまりに牧歌的な自虐であり、記憶の果てに聞こえる懐かしいメロディーのようなものだ。
芸術が、あらゆる意味で近代的な関係性に於いてのみ成立するサブジェクトではなく、むしろあらゆる関係を断ち切った出現で現れるということすらモード化された時代もあったし、ウィトゲンシュタイン(1989~1951)の建築(ストンボロー邸)こそが、彼の孤高な完成を示すように、時に孤立無援の自己言及を思わぬ領域が救う場合もある。例えば小津安二郎の映像がその輝きを示す時空と云うものがあり、それは欲望の淘汰が繰り返されるポストモダンな都市ではなく、固有の文脈の蓄積が空間に根を張り、他と自己を明快に鮮明化させる場所においてこそ、映像は瑞々しさを放つことを随分昔に体感していた。それは今日顕著に感じられるようになった。
作家が担うべきはオリジナリティーと、人間的な自由を前提とされた時代において、やや擁護されていたその権利のようなものは、今のこの苦境ともいえる世紀で同じ理由を持ち得ない。大量虐殺と他者否定の完全対立からの殺戮、グローバル社会という観念だけ先行し、実は国益という近代的な枠組みに囚われるシステムしか機能しない脆弱な組織の生き残りを賭けたゲーム社会において、大量に配布される表象のほとんどが雛形化し、判で押したような稚拙な反復で、近代的な錆びた観念を、さらに奥深く打ち込むように作用している。これを利用することを承知の上で、「どうでもよいことは社会に従う」として、否、実はと裏側を後日談として示す狡猾もある。
ある異系として、贖罪の世紀として現代を捉えようとすると、この贖罪という観念はそもそもキリスト教用語であり、罪を償うという態度自体この国の中に文脈として明確に流れていないことに気づく。つまり極論として罪という意識すら無いといえる。
ー文化庁「宗教年鑑」によると、神道系が約1億600万人、仏教系が約9,600万人、キリスト教系が約200万人、その他約1,100万人。2002年の時点で、神道系85,212団体、仏教系77,640団体、キリスト教系4,445団体、諸教15,337団体が存在している。読売新聞が2005年8月6日、7日に行った宗教に関する世論調査では、宗教を信じないと答えた人が75%に上り、信じていると答えた人は23%と、1979年の調査の34%と比べて11%減っている。ーwikiより
ー「和」を尊ぶ文脈形成が唯一あって、神道はその上に成立し、仏教も結局は怨霊を鎮魂する為の道具として活用された。来日した外国人や、熱心な宗教信者となった日本人は、多くの日本人が無意識の内に「和」を至上のものとする思想をもつことを見出すことができるという。ー井沢元彦 wikiより
エゴの彼岸とも、その大いなる逆説とも化ける「和」という共通言語に頼る社会のオゾマシさ、脆弱を、引き受けて、先鋭の作家が社会にコミットする(責任を伴う約束)具体的な形とは、昨日亡くなったマイケル・ジャクソンの基金設立や、ビル・ゲイツの慈善事業といった、金で解決するものではないだろう。
あなたのその絵を描いた理由と目的は?と質問されて、現代の作家はどう答えるのか。
posted by machidatetsuya : 09:58 AM | comments (0)