Solo Show [PLANE 1990-1995] / gallery Showagura ToguraKamiyamada Nagano1995



制作ノート
制作は、制作するものにとって特殊な出来事(仕草)ではないが、制作によって生まれる作品は「これからへ」という予感めいた「新しさ」という働きかけを、その都度辺りへ促すものだから、制作の生産システムが確定的に完成してしまうというのはありえない。震えながら、放ち、諦めや放心も伴う張りつめた営為である。
制作に反復というシステムを持ち込む制作思考をこの矛盾のうちに試さないと、作品自体の有様(リアリティー)が疑わしくなる。つまり、制作とは、辿り着いた一つの観念ではなくて、できるだけ克明で明快な固有な生でありながら、個を超えていく。その場限りへとへばりつくと、制作者の成立が、外側を根拠なく信じて疑わない幻想によってでしか説明できないものとなって、制作するその手前の空間に、今までどうおり甘く含まれる。
開き直って、些細なことを脈絡なく妄想する余分な時間などあるわけないし、それよりも、虚空を測るように制作を続けたいと、祈る気持ちが頼みの綱となる。
「制作」と「眺めるということ」が端的な構造を照応させ、且つ、互いに突き抜けていくような思想を、私は制作自体に求めているといえる。
音の立ち上がるその手前で、耳を澄ますように、筆を握っているこちらがあって、作品もこちら勝手の譜面のようにも眺められる。そして何か壊れた感じが付き纏う。そこから何かが聴こえてくる気がしてならない。
作品を「展開する」仕組みと、制作者個人の在り方の関係を、新たな問題としようとしている。制作の論理は、作品の手法であったらつまらない。単独の制作者が生きる全く別のビジョンが必要だ。しかし、大胆にスピードに溢れた制作を続行することが、未知に近付く最短の手段である。 こちら自体には何もない。漠として、けれど歩き回ると、その移動が思いがけない運動や出来事を生み出すことになるから、あれこれを、観念を解体したり組み換えるばかりに悩まずに、とにかく出来るかぎり歩き回って外気に犯された自身を持ち込んで。もう一度、更にもう一度と、白い画布の前に立つことで、制作は次第に凄みが増していく。
時間が空間を切り裂く。空間が時間を歪ませる。微かな吐息が、喘ぎがそこに生み出された。光速を超える一瞬と、深いためらいが横たわる.....。 そういった平面の制作は、やはり、再び別の空間を求めてきた。
ホルベインの奨学制度による画材の支給で可能となった、立体制作があった。
様々な音が共鳴しながら、様々な過去を呼び出すような空間で、私は、新たな平面の反復のための、季節への逸脱を考えている。

beyond 1995 [thousand finger] f120 canvas,silicon carbide,mixed oil
beyond 1995 unit [Sokusai] f6,f12x5,f10x2 canvas unit,silicon carbide,mixed oil
beyond 1995 [365days line] f120 canvas,silicon carbide,mixed oil
beyond 1995 [Luxor and waterfall] f120 canvas,silicon carbide,mixed oil







Sakaimeijyo Syuzo Collection




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